一昔前まで、いや今も、コンピューターに文字を入力する方法はキーボードが主流だ。だが、タブレットの普及とスタイラスペンの登場によって、手書きも可能になってきた。「紙のノートに近い感覚でメモが取れる」「紙のノートよりも便利」という人がいる一方で、どう使えばいいのか、いまひとつ分からないという人も多い。そんな中、映画制作にiPadをフル活用している映画監督がいるという話を聞いた。『図書館戦争』や『アイアムアヒーロー』で有名な佐藤信介監督だ。「今は絵コンテの作成、進行管理、美術スタッフとの情報共有などにiPadをフル活用している」という佐藤監督。その活用方法を聞いた。

 映画は近年、フィルムからデジタルへ急速に移行してきた。半導体や電子機器の技術革新が進んだことで、銀塩フィルムを使うアナログ方式から、CMOSなどの撮像素子を使ってHDDなどに記録するデジタル方式へ移行。画質の優劣などに議論があるものの、撮影・編集・上映に関わる労力や費用を低減できるようになった。また、CGやVFX、3D化など映像表現の幅も広がっている。

 その一方で、絵コンテ作成や進行管理といった制作過程では、デジタル化やそれに伴う効率化がなかなか進まないと言われている。映画制作は、関わるスタッフの数が多く、作業の内容も多様、かつ同時並行で進むからだ。そんな中、デジタルツールの採用に積極的なのが映画『図書館戦争』(2013年)や『アイアムアヒーロー』(16年)で知られる佐藤信介監督だ。

佐藤信介(さとうしんすけ): 映画監督。1970年生まれ、広島県出身。市川準監督『東京夜曲』で脚本、『LOVE SONG』で長篇監督デビュー。脚本作に『県庁の星』『春の雪』など、監督作に『GANTZ』2部作、『図書館戦争』『アイアムアヒーロー』『デスノート Light up the NEW world』などがある。現在、『BLEACH』(福士蒼汰主演)、『いぬやしき』(木梨憲武・佐藤健主演)のポストプロダクション中。2018年公開予定
佐藤信介(さとうしんすけ): 映画監督。1970年生まれ、広島県出身。市川準監督『東京夜曲』で脚本、『LOVE SONG』で長篇監督デビュー。脚本作に『県庁の星』『春の雪』など、監督作に『GANTZ』2部作、『図書館戦争』『アイアムアヒーロー』『デスノート Light up the NEW world』などがある。現在、『BLEACH』(福士蒼汰主演)、『いぬやしき』(木梨憲武・佐藤健主演)のポストプロダクション中。2018年公開予定
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 例えば、2~3年前から、映画・ドラマ制作に特化した共有アプリ「PE RUSH!(ピー・ラッシュ)」や、クラウドサービス「PE CLOUD(ピー・クラウド)」を素材管理に導入。衣装や美術の資料、オーディション映像やラッシュ(編集前の撮影映像)などさまざまなデータを管理し、スタッフ間で共有している。

 「以前は撮影後、疲れているのにみんなで試写室に集まってラッシュを確認していた。その後、DVDなどのディスクに焼いて配るようになったが、手間がかかるし、誰の手には渡って、誰には届いていないなど、管理もしにくかった」(佐藤監督)。PE RUSH!を使うことで、スタッフは各自が持つ端末でサーバーにアクセスし、ラッシュを確認したり撮影現場でキャストに見せたりできるようになったという。「映画は共同作業のかたまりなので、情報共有が楽になるだけでもかなり便利になる」(同)。

ロケハンではiPadで画像に人や車を描き入れる

 近年、アイデア出しから進行管理まで、映画制作の全過程でフル活用しているのがタブレット端末「iPad Pro」とタッチペン「Apple Pencil」だ。「iPadが出てきた10年ほど前から現場で使えないかと試行錯誤してきた」という佐藤監督だが、iPad ProとApple Pencilが登場し、ノートに近い感覚で手書きできるようになって利便性が一気に向上した。「使っていなかったころにはもう戻れない」と話す。

 例えば、ロケ地探し(ロケハン)で撮った写真をiPadに取り込み、Apple Pencilを使って手描きでシネマカメラの画角を想定した枠線を引いたり、本番で配置する人物や車、大道具などを描き込んだりする。そのほうが、ただ写真を見るよりも、その場所が撮影に適しているか判断したり、撮影のイメージをスタッフと共有したりしやすいのだという。「写真に書き込むことはパソコンでもできるが、現場で立ったまま使うのには適さない。その点、タブレットとタッチペンなら、ちゃっちゃと手書きできる。スタッフと共有するときも、画像ファイルにして送信すればいいので簡単」という。

『図書館戦争』の際、スタッフ間で実際に共有した画像。「必要なエキストラが50人なのか、80人なのか。写真に絵を描いて検討するとかなり正確に分かる」(佐藤監督)
『図書館戦争』の際、スタッフ間で実際に共有した画像。「必要なエキストラが50人なのか、80人なのか。写真に絵を描いて検討するとかなり正確に分かる」(佐藤監督)
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 この方法は、絵コンテを作るときも重宝するそうだ。佐藤監督が映画を撮るときは、映画のシーンをスタッフなどに仮で演じてもらって撮影する「ビデオコンテ」を最初に作り、それを絵コンテに起こす。「映像で1回作った方がイメージが伝わりやすいし、映像の勢いも消えないから」(同)。ビデオコンテの映像をキャプチャーし、その画像にApple Pencilで壁や建物のイメージを描き入れたり、足りないシーンだけを絵で書き起こしたりして、絵コンテの下書きを作る。それをプロの職人(コンテマン)に渡して、絵コンテに仕上げてもらうという。

『図書館戦争』の際、スタッフ間で実際に共有した画像。「必要なエキストラが50人なのか、80人なのか。写真に絵を描いて検討するとかなり正確に分かる」(佐藤監督)
『図書館戦争』の際、スタッフ間で実際に共有した画像。「必要なエキストラが50人なのか、80人なのか。写真に絵を描いて検討するとかなり正確に分かる」(佐藤監督)
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『アイアムアヒーロー』の絵コンテの下書き。ビデオコンテからキャプチャーした画像に壁や廊下の様子を手描きしてある
『アイアムアヒーロー』の絵コンテの下書き。ビデオコンテからキャプチャーした画像に壁や廊下の様子を手描きしてある
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こちらは手描きした絵コンテの下書き
こちらは手描きした絵コンテの下書き
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写真、文書、メモ書き……まとめて管理できるのが便利

 佐藤監督が映画制作でiPad Proをフル活用するようになったのは、制作の過程でたまっていく写真や文書、メモ書きといった資料をまとめて管理できるツールが登場したことも大きい。

 佐藤監督が使っているのがiPhone/iPadで使えるデジタルノートアプリ「GEMBA Note(ゲンバノート)」だ。GEMBA Noteは、各ページに手書きやキーボードで文字を入力したり、絵を描いたり、写真やウェブページ、PDFを貼り付けたりと多機能なのが特徴。「映画の構想や制作の段階で監督がスタッフやキャストに伝えたいことは、実に多岐にわたっている。演出の8割は、何かのイメージを伝えること。伝えたい内容に応じて、文章や絵、写真など最適なツールをさっと選べるのはとてもありがたい」(同)。

 前述のロケハン写真や絵コンテ発注前の下絵描きのほか、美術や衣装のイメージ案のまとめなどにも、このアプリを使う。さらに、台本作成前に、ストーリーに入れたい要素や順番を検討するなど、従来は情報カードや付箋を使っていた作業も、GEMBA Noteに書き込むようになった。「情報カードや付箋は順番を入れ替えたり、片付けたりするのが面倒だった」(同)。GEMBA Noteは手描きができるので、文字に表情がつけられるのも利点という。「強い要望なら大きな字でグリグリ書けばいいし、逆にちょっとした補足は小さく書いておけばいい」(同)。

写真、手書きのイラストや文字、テキスト入力した文字など、さまざまな情報がまとまっている
写真、手書きのイラストや文字、テキスト入力した文字など、さまざまな情報がまとまっている
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台本作成前、検討段階のメモ。アイデアなどが手書きでびっしりと書き込まれている
台本作成前、検討段階のメモ。アイデアなどが手書きでびっしりと書き込まれている
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『アイアムアヒーロー』の検討段階のメモ。劇中に登場するZQN(ゾンビ)の頭が吹っ飛ぶイメージを描いたもの。「なんとなく描いた絵がよかったので、後で拡大して、スタッフと共有する資料に貼り付け、配ったこともある」(佐藤監督)
『アイアムアヒーロー』の検討段階のメモ。劇中に登場するZQN(ゾンビ)の頭が吹っ飛ぶイメージを描いたもの。「なんとなく描いた絵がよかったので、後で拡大して、スタッフと共有する資料に貼り付け、配ったこともある」(佐藤監督)
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 入力した後の加工が簡単なのも、監督が評価する点。特に、手描きした絵を直感的な操作で編集できるところに使い道があると感じている。映画監督は絵コンテや小道具のイメージなど、絵を描いて説明することも多いが、「絵が下手な人も、描いた後に縦横の比率や各部の位置を修正できるから描きやすいのではないか。絵を写真や文章と組み合わせて使うと、格段に相手に伝わりやすくなる。以前はメールで何かを伝達した後に、補足のために電話をして、それでも伝わりきらず、結局は会って話すなんてこともあったが、無駄がなくなった」(同)。

『図書館戦争』の映画内に登場したポスターのイメージ。これだけの絵でも、ポスターをデザインするデザイナーにイメージを伝えやすいという
『図書館戦争』の映画内に登場したポスターのイメージ。これだけの絵でも、ポスターをデザインするデザイナーにイメージを伝えやすいという
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 入力した絵やテキスト、図などを四角や丸、あるいは自由な図形で囲んで範囲選択し、まとめて拡大・縮小したり、移動させたりもできる。「同じページにもう少し書き足したいと思ったとき、縮小してスペースを作り、追記したり、逆に一部だけを次のページにコピーして展開させたり、順番を入れ替えたり……自由に使えるのでストレスがない。紙は紙で便利だし、今でもたくさん使っているが、デジタルノートにはこれでしか出来ないことがある」(同)。

撮影現場で絵コンテをササッと書き換え

 佐藤監督は、『図書館戦争』や『アイアムアヒーロー』など、過去の映画の撮影現場でiPad ProとGEMBA Noteを使い、監督業務を効率化してきた。だが、2018年に公開予定の新作『いぬやしき』の制作では、初めてGENBA Noteのビジネス版を導入した。ビジネス版の最大の特徴は、文書をメンバーのiPad間でリアルタイムに共有できること。同じファイルを開いて、それぞれが編集もできる。実際に『いぬやしき』の撮影中は、監督とスクリプター(撮影内容の記録など、監督の秘書的業務を担うスタッフ)、編集部の3者でGEMBA Noteを利用した。

 例えば、こんな使い方だ。撮影現場で、GEMBA Note上の絵コンテなどに監督が走り書きしておくと、監督がキャストやスタッフと話している間に、スクリプターが見やすく“清書”しておく。「こういう映像を撮っておきたい」「このコマとこのコマの間にもう1カット差し込みたい」という意向を監督が絵や矢印などで簡単に書き示しておけば、スクリプターが絵に枠線をつけたり、元の絵コンテに挿入したりしてくれるので、最初からそのコマが存在していたかのように整理されるのだという。しかも、整理後の状態を監督がその場で見られるので、伝達ミスが起こりにくく、双方のコンセンサスが取れた文書がその場で出来上がっていく。

追加したカットや削ったカットが赤字で書き込まれている『アイアムアヒーロー』の絵コンテ。『いぬやしき』では絵コンテもGEMBA Noteでスタッフと共有したので、こうしたメモもスクリプターが清書しておいてくれるようになったそうだ
追加したカットや削ったカットが赤字で書き込まれている『アイアムアヒーロー』の絵コンテ。『いぬやしき』では絵コンテもGEMBA Noteでスタッフと共有したので、こうしたメモもスクリプターが清書しておいてくれるようになったそうだ
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 整理された文書をすぐに使えるため、他のスタッフやキャストへの伝達も格段にスムーズになる。さらに、現場が撮影の進捗状況を書き込んでおくことで、離れた場所で作業している編集部も、リアルタイムで撮影の状況を把握できる。従来は、スクリプターがその日の撮影が終わった後、情報をまとめて紙に出力し、編集部へFAXで送信したり、PDF化してメールしたりする必要があったが、その手間も省けた。

『図書館戦争』佐藤信介監督「iPadで映画史が動いた」(画像)
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 GEMBA Noteで情報共有していないスタッフやキャストに資料を送る場合も、GEMBA NoteのページをキャプチャしてLINEなどで送信すればいい。従来は紙に出力していた資料のほとんどがタブレットで扱えるようになったことで、現場に持ち込まれる紙束も激減した。佐藤監督は「端的に言って仕事がかなり楽になった。僕らにとっては“映画史が動いた”というほどのインパクトかもしれない」と笑う。

旧態依然としていた現場の仕事をデジタルで効率化

 映画のデジタル化自体について、佐藤監督は「フィルムが素晴らしいのはもちろんだけど、デジタルなら(低予算の)小さな現場でも映画が作れる。デジタルになったことで何が出来るだろうと考えると、僕はワクワクするほう」だ。だからこそ、現場にiPadを持ち込んだのも約10年前と映画業界では早かった。

『図書館戦争』佐藤信介監督「iPadで映画史が動いた」(画像)
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 「iPad導入したてのころは、iPadしか持っていないと『信用ならないやつ』と思われそうで、紙の台本も手に持っていた。今は現場に持参してもほとんど開かない」(同)。キャストと現場でセリフを練るときは、Wordファイルで保存されている台本をiPadに表示して話す。「台本のセリフやト書きを書き換えたいとき、紙の台本やPDFだと書き込める量が物理的に制約されるが、Wordならいくらでも書き換えられる。台本は生ものなので、自由に書き換えがきくことは大切」(同)。

普段からワイヤレスのキーボードと小さなiPadスタンドも持ち歩いている。「台本もすぐに書き換えられる」(佐藤監督)
普段からワイヤレスのキーボードと小さなiPadスタンドも持ち歩いている。「台本もすぐに書き換えられる」(佐藤監督)
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 制作現場のデジタル化は、カメラをデジタルに替える、最新のCG技術を取り入れる、といった動きに比べると地味で注目されにくい。だが、「旧態依然としていた僕らの手の先、目の先の仕事」(同)を、Apple PencilやGEMBA Noteを使って効率化できる時が来た。「これまでのやり方を変えることに怖さは感じたが、思い切って変えてみた結果、目からウロコが落ちるようなこと、プラスになることがたくさんあった」と佐藤監督。写真に手描きで情報を書き込む説明方法や、図版、テキストをまとめる管理術など、監督の取り組みは、業種・職種を問わず、“現場”の仕事を持つ人への示唆に富むものと言えそうだ。

(文/赤坂麻実 写真/志田彩香)

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