アイロックは、自動車のアルミホイールの製造販売などを手がける企業だ。このアイロックが、自動車の運転を疑似体験できるドライビングシミュレーションシステム「T3R」シリーズを開発し、VRにも対応した。新車の開発に生かしたい自動車メーカーや運転教習に利用したい教習所などから注目を集めている。
※日経トレンディネット2016年11月4日公開の記事を再構成
ドライビングシミュレーター自体は自動車関連業界では一般的だ。身近なところではアーケードゲームや自動車教習所の授業で取り入れられているし、自動車の開発にも生かされている。また、自動車業界はVRへの取り組みも活発。製造段階での運転シミュレーションやセールスプロモーションへの活用などが進んでいる。ただその多くは、大型モニターやVR用HMD(ヘッドマウントディスプレー)を介した動画で自動車の外装や内装を見たり運転したときのイメージを体験したりと、主に視覚的な再現にとどまっている。
これに対して「T3R」は、大型モニターやHMDによる視覚的な体験だけでなく、運転中に感じる揺れや細かな振動、ハンドルを切ったときに振られる感覚など体感までを再現している。設定を切り替えることで、道路環境や車種、パーツによる細かな違いもシミュレートできる。それでいて価格は448万円(税別)からと、数千万円する従来のシミュレーターより圧倒的に低い。
ドライビングシミュレーターのソフト自体は、プロも使用するレーシングシミュレーター「アセットコルサ」のものを使っている。ディスプレーもVR用HMDも市販のものだ。では何が従来と違うのか。肝は、4つのアクチュエーターを使い、タイヤが路面に接地している感覚をリアルに再現する独自の構造とその制御システムだ。「従来のシステムでは、体感までは得られなかった。実車に近いリアリティーが得られるようにシミュレーターのデータをチューニングし、シート上で体感まで再現したのがT3R」と同社代表取締役の古賀琢麻氏は話す。
装置のフレームはプラスチック加工などを手がけるタツミ化成と共同開発したもので、2016年6月に完成した。当初は映像を表示するのに大型モニターを使用していたが、9月にはVR用HMDを装着して使用できるモデル「T3R VR」(468万円から)もラインアップに加えた。
ゆりかご式のシートで実車さながらの運転感覚
T3Rの最大の特徴は、シートがほとんど“浮いている”ことだ。車の揺れや傾きなどをシミュレートしてシートは動くが、この動きはシートの後ろにある4つのアクチュエーターでつり上げられていて、シートの前方にアクチュエーターはない。
アクチュエーターのうち外側にある2つは、タイヤと路面の接地状態をシミュレートするためのもの。例えば、太いタイヤは路面の接地面積が広くなるためグリップ感が高くなるが、タイヤが狭くなるとグリップ感は低くなる。こうした感覚まで再現する。「タイヤのグリップが乗り心地や燃費を左右する。車の開発では重要な要素だ」(古賀氏)。
シートのすぐ後ろにある2つのアクチュエーターは、シートの動きを制御する。シートを4つのアクチュエーターで後ろからつったこの“ゆりかご式”の構造により、ハンドルを左右に切ったとき、ハンドルを中心に車に振り回されるような、実際の運転感覚に近い揺らぎのある動きが得られる。「僕らレーサーが“おつり”と呼ぶこうした揺らぎは、本来自分では制御できない。そこに運転のリアリティーがあるのだが、シートに直接アクチュエーターを付けた構造のシミュレーターでは実現できない」(古賀氏)。さらには、シートに内蔵したウーファーで、路面からの細かな振動まで再現している。
このゆりかご式の構造を思いついたのは、レーサーとして様々なシミュレーターを試し、実車とはまるで違う感覚に落胆してきた古賀氏自身の体験があったからこそだ。ゲーム用やレースドライバー育成用のシミュレーターは、ゲームとしてはよくできていても、実際の運転で路面や車から伝わってくる感触がなかった。
考えてみると、「自動車を運転しているとき、アクセルやブレーキを踏む足はほとんど浮いた状態。唯一、お尻だけがシートを通じて車体に接している。路面からの感触は、実はタイヤと車体を通じ、お尻で感じている」と古賀氏は説明する。この“お尻で感じる”感覚を生み出すために考案したのが、宙に浮いたゆりかご式の構造というわけだ。
また、フレームの剛性も高めた。それというのも、既存のシミュレーターでは剛性不足で、レーシングカーの感覚でブレーキを強く踏み込めなかったからだ。
ゲームとは違う本当の“リアル感”
筆者も実際にT3Rを体験してみた。今回体験したのは、オキュラスリフトを使ったVRモデルだ。
シートに座ってHMDを装着し、走り出してまず感じたのは路面の感覚が本当に尻に伝わってくることだ。段差に乗り上げるときの下から突き上げてくる感触や、アスファルトの上を走っている時のザラザラとした感触が文字通り“尻”で感じられる。ハンドルを切ると、車に引っ張られるようにシートが動いて、ハンドルを握っている手を中心に車に振り回されるような感覚が伝わってくる。
運転している様子を外から見ているだけだと、画面の動きに比してシートの動きはとても小さく地味に思える。アミューズメント施設にあるドライブゲームなどとは全く違う。しかし、実際に乗ってみると、こちらのほうがずっと実車に近かった。
自動車開発や安全運転に役立つ
体験したT3Rにはレカロのシートが付いていたが、シートやハンドルは交換できる。車種は一般の乗用車からF1カーまで、道路も一般道からサーキットまで、シミュレーション用のデータがあれば再現できる。こうしてパーツやデータを変えることで、たった1台のシステムでレーシングカーからタクシー、バス、乗用車まで様々な車種のシミュレーターになる。
元々ゲームは嫌いだし、当初はシミュレーターも認めていなかったという古賀氏。だが、シミュレーターにリアリティーが出せれば、その活用幅は広がるとも考えるようになった。そして「自分が欲しいと思ったシミュレーターを模索していたら、出来上がってしまったという感じ。まだ発売から数カ月で大々的に宣伝しているわけではないが、自動車メーカーなどからすでにかなりの引き合いがある。価格を抑えたこともあり、個人で購入する人もいる」と話す。
VR用HMDを導入することは、開発当初から視野に入れていたという。「シミュレーションはモニターでもできるが、VRのメリットは視点の動きが分かること」。将来的に、視点をトラッキングするシステムなどと組み合わせれば、活用幅はさらに広がると考えている。また、大型モニターをVR用HMDに置き換えることで、大型モニターを使う場合よりも省スペース化できるのもメリットだ。家の中やショールーム、イベントスペースなどに設置することを考えて、配線を見えにくくするなどデザインにもこだわった。
用途は、まず自動車産業での開発用途を想定している。試作車を作って実車検証をする前に、設計データを基にしたシミュレーターで走り具合や乗り心地などをチェックできれば、開発期間の短縮やコストダウンにつながる。VRを使うことで、例えば運転席から後ろを振り向くと後部座席がどう見えるかといったことも分かる。複数のT3Rをネットワークで接続することで、遠く離れた拠点にいる複数の開発者がVR空間にある1台の“自動車”に乗り込み、試乗したり、運転席、助手席、後部座席それぞれからの視点を確認したりといったこともできるという。
次に想定しているのが、自動車のショールームでの活用だ。各社のシミュレーション用データを基に様々な自動車を再現して、VRで試乗できる。モデリングデータを使えば、車の外観や内装を見ることも可能だ。ショールームだけでなく、自動車のパーツショップでも役立つ。サスペンションやタイヤホイールといった自動車のパーツのデータを入力して運転することで、パーツを実際に購入する前にその感触を試せる。
「安全運転のための自動車教習にも提案したい」と古賀氏は言う。地方自治体が実施している交通安全教室などでT3Rを使えば、これまでにない実感を伴った教習ができるだろう。「今後、高齢化が進めば、高齢者の事故はますます増えるだろう。高齢者向けの講習などに役立てられないかと考えている。事故を減らすには、一人ひとりのドライバーの運転技術向上が必要。T3Rなら、実車に近い訓練が安全にできる」(古賀氏)。
さらには、タクシーやバス、トラックなどのプロドライバーの運転、接客研修などの用途もあるかもしれない。例えば、車に荷物を積んだ状態や悪天候に見舞われたときの路面状況などを再現して運転技術を試したり、視線の動きが分かるVRのメリットを生かして、接客時のタクシードライバーの動きをチェックして接客研修に利用したりできるだろう。
「シミュレーターやVRの活用範囲はすごく広いと思っている」と古賀氏。今後はイベントなどに積極的に出展する予定で、実際に体験できる場が増えていきそうだ。
(写真/湯浅英夫)