アサヒビールを抜き、11年ぶりにビール類で首位を奪還したキリンビール。その立役者が、同社常務執行役員マーケティング部長の山形光晴氏だ。山形氏がP&Gからキリンに入社後、同社のマーケティングはどのように変わったのか。山形氏自らが、ぶらさず実践し続けてきたマーケティング改革の3箇条を語った。

キリンビール常務執行役員マーケティング部長の山形光晴氏
キリンビール常務執行役員マーケティング部長の山形光晴氏

 山形氏のマーケティング哲学を一言で表すと、「お客様主語」。企業都合で発想したり、時間を優先した開発スケジュールを立てたりするのではなく、あくまで顧客の期待に応えられているかを追求するというシンプルなものだ。

 山形氏が語る「お客様主語のマーケティング改革」は3箇条に集約される。1つ目が「お客様のことを一番考え、全ての判断軸をお客様に置く」というもの。2017年10月から「真にお客様のことを一番考える会社になる」をモットーに布施孝之社長自ら推進する変革(いわゆる“布施改革”)の核ともいえる考えだ。

ビールのことばかり考えているお客様はいない

 ではどのように顧客を理解するのか。山形氏はこれを、「N=1の深いお客様理解」という言葉を用いて説明する。具体的には、1人の顧客を深く理解すること。定性調査の定番であるデプスインタビュー(1対1の深いインタビュー調査)などを通じて顧客の求めているものを理解するということだ。

「N=1の深いお客様理解」
「N=1の深いお客様理解」

 ビールメーカーであれば、顧客には当然ビールの話を聞きたくなるもの。どんなビールが好きか、週何回飲むか、糖質は気になるか……。だが山形氏の顧客理解はそこではない。

 「ビールのことばかり考えているお客様はいない」と山形氏は断言する。例えばスーパーで買い物をしている人がいたとする。その人がビールのことを考えるのは、ビール売り場の前、ほんの一瞬のことだ。スーパーにいる客の頭の中の大部分は、「3日分の献立をどうしようか」「足りない調味料はあっただろうか」などで占められているはず。スーパーの中でさえこうなのだから、日常生活においてビールのことを考えている時間なんてほぼないということになる。

 そんな少ない時間のなかで、キリンの商品をいかに想起してもらえるか。マーケティングの世界では定量的な数字に着目しがちだが、山形氏のいう顧客理解とは、より消費者に寄り添うものである。「お客様の顔が見えるか。その人が生活の中で自分たちの商品を手に取ってくださる姿を想像できるか、というところまで深く理解していこうという話をいつもしている」

 顧客理解に基づく仮説を重視する姿勢は消費財を担当していたP&G時代に培われたという。山形氏流の顧客理解は、もちろんデプスインタビューもやるが、若い頃から行っていたのが店頭で客を観察すること。「アイデアに困ったりとか、本当にこの商品が売れるのか自信がなかったりしたときとか。今はスーパー、P&G時代であればドラッグストアにずっと立って。昔は声を掛けて直接お話を聞いちゃうこともあった」と語る。

「(お客様を)深く理解することで、仮説を作ることができる」
「(お客様を)深く理解することで、仮説を作ることができる」

 例えばどんな人を見てどんなふうに考えるのか。一例を聞くと、「最近印象的だったのは土曜日に見た、30代ぐらいの男性。結構長い時間ビール売り場で何かを探している。その時点ですごく珍しいお客様。高価格のクラフトビールを手に取って盛んに裏と表を見比べたりしてる。そしていったんは立ち去ったけどまた戻ってきて、そのビールを1本だけ選んでカゴに入れて、おつまみと一緒に買っていった」という。

 「こういう人もいるんだな。ビール好きなのかな。パッケージが気になったのか、何か新しい商品を探しているのか。何かの記事とかを見てそのビールを知ったのかな、土曜日だし自分へのご褒美なのかな、家に帰ってゆっくり飲むのかな、とか。そうやって想像していくうちにいろいろな仮説ができていく」(山形氏)。その客の日常を想像して、キリンはその生活のどこに寄り添えるのか。クラフトビールで迷っていたなら、自分たちの高付加価値のブランドへどのように生かしていけるかを模索していく、というわけだ。

カスタマージャーニーにおける「4つの瞬間」

 2つ目が、「お客様起点の戦術を計画し、全社でブランド育成を行う」というものだ。下の資料を見てほしい。キリンビールでは顧客との接点を4つに分け、カスタマージャーニーを設定。具体的には、「来店前情報接触」「店頭購入」「飲用経験」「経験後行動」の4つだ。

カスタマージャーニーを「来店前情報接触」「店頭購入」「飲用経験」「経験後行動」の4つに分けた
カスタマージャーニーを「来店前情報接触」「店頭購入」「飲用経験」「経験後行動」の4つに分けた

 そのうえで、各瞬間における態度変容を促す戦略についてこう指摘する。「例えば来店前情報接触であれば、『いつものビールでいいや』『とりあえず生』と考えている人は結構いると思うが、そのような方たちにクラフトビールのような高付加価値製品に気づいてもらうということも大きな態度変容だと言える。そのために何ができるのかを全員で考えることが重要」

 21年3月に発売した、同社渾身(こんしん)のクラフトビール「SPRING VALLEY 豊潤<496>」。先日、あるテレビ番組で取り上げられたところ、『こんな新しいビールがあるなら飲んでみたい』などと想像以上の反響があったという。

 「偶然番組を見た人が店頭に行く。たまたまそこで『豊潤』が目に入り、少し気になっていたから買ったとする。飲んだ後においしかったなと思いネットで検索して好意的な意見を見つけると、『みんなもこう言っているんだ。じゃあ、もう一回買ってみようかな』となるかもしれない」(山形氏)。このようなことを想像しながら、社員全員がお客様に対して何ができるかを考える。これが、全社でブランド育成を行うという意味だという。

 SPRING VALLEY 豊潤<496>は、発売約2カ月で年間販売目標の約3割を達成した。購入者のうち約7割が非クラフトビールユーザーという点に着目すべきだろう。全社を挙げてのブランド育成が奏功していると言える。カテゴリの間口を大きく広げた同製品をもって「ビール市場全体を活性化したい」と、布施社長の期待も大きい。

「社員全員がお客様に対して何ができるかを考える。これが、全社でブランド育成を行うという意味」
「社員全員がお客様に対して何ができるかを考える。これが、全社でブランド育成を行うという意味」

その派生商品はブランドのためになるのか?

 3つ目のポイントは、「マーケティング人材の育成」だ。キリンビールの求めるマーケ人材は、「ブランドビジネス(経営)ができるマーケター」。この現実的な目線は、ヒットメーカーやアイデアマン、広告上手といった従来のマーケティング巧者のイメージを覆す。

キリンビールの求めるマーケ人材は、「ブランドビジネス(経営)ができるマーケター」
キリンビールの求めるマーケ人材は、「ブランドビジネス(経営)ができるマーケター」

 マーケ人材育成のために同社が取っている戦略は、「ブランドマネジャー制の導入」「ブランドPDCAの強化(月次・年間)」「ブランドROI(投資利益率)システムの開発・導入」の3つだ。キリンビールでは以前からブランドマネジャーの肩書自体はあったが、改革における「ブランドマネジャー制の導入」には、改めて各ブランドの責任の所在を明確にするという狙いがあった。それにより、チーム全体がブランドのことをより考えるようになったという。「これまでは、ブランドではなく商品やその広告のことを考えていた」と、山形氏は指摘する。

マーケ人材育成の3つの戦略は、「ブランドマネジャー制の導入」「ブランドPDCAの強化(月次・年間)」「ブランドROI(投資利益率)システムの開発・導入」
マーケ人材育成の3つの戦略は、「ブランドマネジャー制の導入」「ブランドPDCAの強化(月次・年間)」「ブランドROI(投資利益率)システムの開発・導入」

 目的が細分化されてしまうと、担当者は視野狭窄(きょうさく)に陥り、本来ブランドにとっては既存品の育成が必要な場合でも、不要な新しい派生商品の開発や新しい広告に注力してしまうというのが山形氏の考えだ。商品や広告はあくまでブランドの一部であり、ブランド全体の戦略という観点では不要な新商品は出さないという判断も必要。そこで17年の改革以降は重点投資ブランドを絞り込んだ結果、同年の商品開発の35%はストップし、17年には12あったテレビCM出稿ブランド数は、18年には8ブランドに。「商品担当と言われれば、新しい商品を作らなければ自分の仕事がなくなってしまうと考えてしまい、すぐに派生商品を作りたがる。そうではなく、ブランド自体に必要なものはなんだろうと考える。細かい点ですがここに違いがある」

 絞り込み作戦は大きな成果を上げている。「一番搾り」は2年連続前年比増となった。「一番搾り 糖質ゼロ」が目標の1.5倍を売り上げるヒットもあって20年のビール市場のシェアは18.7%を記録し、18年に発売した「本麒麟」は2年連続の大幅増となり11年ぶりの首位奪還を果たした。

 ブランドのチーム体制を整えた後は、各ブランドのKPIを基にPDCAを期間ごとに回すことを徹底した。月次で数字を含めて短期的な結果を追い、年間では少し引いた視点でブランドがどう成長したのかを見る。「月次では、出てきた学びをすぐ次に生かせるようにしたい。成果の高低が出るので、ROIの高いものにシフトして低いものは切るという判断ができる」と山形氏は語る。

「ROIの高いものにシフトして低いものは切るという判断ができる」
「ROIの高いものにシフトして低いものは切るという判断ができる」

 キリンビールにおけるマーケティングの3箇条の一つ一つは、どれも奇をてらったものではない。だが、このシンプルな決まり事を社内全体に浸透させることが難しいのだ。それを老舗の大企業に完全に落とし込めたところがキリンの強さ。社員全員が常に顧客のことを考え、ブランドを育てる組織へと変化しているからこそ、シェア逆転劇は起こるべくして起こったと言える。

(写真/高山 透)


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