東急やJR東日本などが静岡県の伊豆エリアで取り組んできた観光型MaaS「Izuko(イズコ)」。2度にわたる実証実験は2020年3月に終了したが、そこで得られた学びとは何か。この実証実験をけん引してきた「中の人」であり、書籍『MaaS戦記 伊豆に未来の街を創る』を出版した東急の森田創氏による寄稿の前編。
2020年3月10日、午後5時、伊豆急下田駅。私(東急・森田創)はアスファルトをたたき付ける豪雨の水しぶきを、ぼうぜんとしながら見つめていた。日本初の観光型MaaS「Izuko(イズコ)」の、19年度の実証実験が終わった瞬間であった。19年ぶりの静岡デスティネーションキャンペーンに合わせて、フェーズ1(19年4月1日~6月30日)と、フェーズ2(19年12月1日~20年3月10日)の計6カ月強(192日間)の実験だった。
「雨、強いね」
駅の軒先で立ち尽くす私に、すっかり顔なじみになった地元のタクシー運転手が声をかけてきた。今この瞬間、疲れ果てながら、充実感めいたものがあるとすれば、デジタルの取り組みだと思っていたMaaSが、多くの地元の支えによって成り立つ「ヒューマンなもの」だということに、気づけたからかもしれない。
スマートフォンの決済画面を見せるだけで、伊豆の各種公共交通や観光施設がお得に利用できるIzuko。最初に思い描いた理想の姿は、宣伝物のキャッチコピーに入れた通り、「見せるだけ」でどこでも周遊できるという手軽さだった。伊豆でこのサービスを定着させるうえで、人と人の関係がこれほど大事だとは思ってもみなかった。
例えば伊豆では、観光客は行き先に困ると、駅の観光案内所か旅館のフロントに行く。そのとき、両者がIzukoの内容を理解したうえで、紹介してくれるかどうかで、Izukoの利用率は全く違ってくる。両者とも、本当は紙の企画乗車券をリコメンドしたほうがメリットは大きい。余計な説明が要らないうえ、売り上げベースでマージンが落ちるからだ。デジタル商品を推奨したところで、観光客がスマホ経由で買うのだから、彼らにマージンは入らない。それでも推奨してくれるかどうかは、ひとえに日ごろの関係性にかかっている。人間関係と胸を張れるほどの、強固なものではなかったかもしれないが、下田に部屋まで借りて、新型コロナウイルスの感染拡大でイベントの中止が相次ぐ中でも、3月の実験最終日まで走り切ろうとした気持ちだけは、幾分でも伝わったのではないだろうか。
特にお世話になった方々に、電話で実験終了の報告をした後、すっかり陽が落ちた白浜海岸を歩いた。先行きに迷うと、決まって砂浜を踏みしめた思い出の場所だ。雨は嘘のようにやんでいた。
立ちはだかった「スマホの壁」
半年間の実証実験で、Izuko経由で販売したデジタルチケットは6166枚に上った。目標として掲げた1万枚には及ばなかったが、ジェイアール東日本企画のウェブブラウザーに切り替えたフェーズ2では、5121枚を売り上げた。19年4月~6月に行ったフェーズ1では、ドイツのムーベル社のアプリで勝負したものの、サービスエリアや商品数が限定的だったことに加え、UI(ユーザーインタフェース)が改善せず、販売枚数はわずか1045枚にとどまった。それを考えれば、フェーズ2は5倍の躍進だ。
フェーズ2では、JR伊東線の熱海駅~伊東駅間をはじめ、サービスエリア拡大も吉と出た。電車とバスが乗り放題のデジタルフリーパス、下田の街中が周遊できるオンデマンド交通、観光施設に割引入場できるデジタルパス、この3商品を連鎖的に購入する観光客が増え、周遊範囲が拡大した。UIが改善したおかげで、コールセンターへの操作方法に関する問い合わせ数も、フェーズ1の7分の1に減った。運営の円滑さ、全体的な認知度、地元の応援度合いは、フェーズ1とは格段の差が出た。もちろん、協力してくれた全ての事業者、地元のグループ会社である伊豆急のおかげだ。
こうしてみるとフェーズ2はいいことずくめに思えるが、それはフェーズ1と比較した場合の話であって、この先の実装を考えると、頭の痛いことばかりだ。
最大は「スマホの壁」だ。伊豆の観光客は、シニア層が多いとはいえ、改善したはずのフェーズ2のUIでも、自力で登録できる方はせいぜい3割という感覚だった。10人のうち、7~8人はスマホを持っているが、スマホの保有率と、自力で操作できることは全くの別物だ。家族との連絡用として持っている人は、自分のメールアドレスや@マークも入力できないのが実態だろう。MaaSは、スマホで展開するサービスだけに、この壁をクリアしないと、全く広がらない。
結局のところ、人海戦術に頼るしかなかった。毎週末、伊豆の主要駅の改札口に、Izukoののぼりと机を出し、「登録、お手伝いします」と観光客に呼びかけ、スマホ操作をサポートすることで、利用数を増やしていった。季節に応じた客層ごとの周遊傾向、場所に応じた訴求ポイントなど、多くの肌感覚と知見を得られた点はプラスだったが、人海戦術には限界がある。今後は、ITリテラシーの高い、若い層にターゲットを絞り、彼ら彼女らに刺さる商品造成やプロモーション施策を一気通貫で行うべきだろう。日本の現状のITリテラシーを考えると、UIが改善したとはいえ、オールターゲットで勝負できるほど甘くないというのがフェーズ2での最大の学びだった。
また、利用実績を稼ぐためとはいえ、商品の割安感で勝負するのも、サステナブルなやり方ではない。観光客は、商品に魅力や価値を感じれば、少々の価格の上下は気にしない。楽しい思い出をつくるために、わざわざ伊豆まで来ているのだから。勝負のポイントは、価格ではなく、オンリーワンの魅力に尽きる。その点では、フェーズ2のデジタルパスで最も売れた、下田ロープウェイと寝姿山山頂カフェ「THE ROYAL HOUSE」のセット券は参考になる。よく晴れた午後、「下田ロープウェイに乗って、山頂の展望台で下田湾と夕陽を一望し、スタイリッシュなカフェでソフトドリンクが楽しめますよ」と観光客にささやくだけで、面白いように買ってくれた。楽しい体験価値が、瞬時に脳裏に浮かぶからだ。
実証実験を始める前は、MaaSは商品を一旦作り上げれば、自動販売機のように勝手に売れていくものだと思っていた。ここまで観光客の気持ちに寄り添い、サービス開発する必要性など微塵(みじん)も想像していなかったが、だからこそ面白いともいえる。
地元に理解を取り付けるために日参しながら、管理画面で確認できる日々のデータを分析しつつ、最適なプロモーションを試行し続ける。1年前の私は、そうしたことを面倒臭いと感じる人間だったが、伊豆の空気が何かを変えた。そういえば、オンデマンド交通の運行に協力してくれたタクシー会社は、Izuko参画をきっかけに、有人対応していたコールセンターを一部タブレット化するという。「以前だったらIT化すると言えば、従業員から猛反発を食らったけど、Izukoのおかげで、やってみようというムードができた」と、その会社の常務から言われたときは、苦労が報われた気がした。
伊豆でMaaSを行う究極の目的は、少子高齢化が進む中でも、ITを活用してサステナブルな地域社会をつくることだが、最大の鍵は、「新しいことを試してみよう」という地元の機運を高めていくことだからだ。
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