完全栄養食や植物由来のタンパク質で作った“卵”、培養肉など、近未来の食の革命「イノベー食(ショク)」(関連記事)をけん引するのは、実はスタートアップ企業ばかりではない。日本の大手食品メーカーも、食の革新を進めるキラリと光る技術をひそかに温めている。その好例が、冷凍食品大手のニチレイにあった。

ニチレイが保有する呼気中の香気成分をリアルタイムで分析する機器「MS Nose 2」と、同社の技術戦略企画部基盤技術グループマネジャー、畠山潤氏
ニチレイが保有する呼気中の香気成分をリアルタイムで分析する機器「MS Nose 2」と、同社の技術戦略企画部基盤技術グループマネジャー、畠山潤氏
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 ニチレイの研究アプローチの1つは、あらゆる食品の「香り」の定量化を通して、「おいしさを見える化」するというもの。これまでも味覚センサーを使って、「塩味」「甘味」「酸味」「苦味」「うま味」を測定する技術はあったが、どんな人でも納得するおいしさの指標はできていないのが現状だろう。それは人間が感じるおいしさが、味覚センサーで計測できる味覚だけでなく、嗅覚(香り)、触覚(食感、温度)、視覚(見た目)、聴覚(音)が統合された感覚であり、特に大きな役割を果たしている「香り」の分析が不足しているからだ。

 その香りも、実は2種類ある。おいしさを見える化するために重要なのは、食品自体が放つ香り(オルソネーザルアロマ)ではなく、人間が食品を食べた際に口腔(こうくう)内から鼻孔に抜ける香り「レトロネーザルアロマ」で、そこに着目しているのがニチレイの研究のユニークな点だ。レトロネーザルアロマは、人間が味わいを認知するメカニズムの中で味覚との強い相互作用があり、おいしさに直結する要素であることが分かっている。

レトロネーザルアロマは、人間が舌で味を感じるのとほぼ同時に鼻腔(びくう)の嗅細胞で感じるもの。味覚と一体の感覚となって「味わい」として知覚されている(出所:ニチレイ)
レトロネーザルアロマは、人間が舌で味を感じるのとほぼ同時に鼻腔(びくう)の嗅細胞で感じるもの。味覚と一体の感覚となって「味わい」として知覚されている(出所:ニチレイ)
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 このレトロネーザルアロマをリアルタイムで計測するには、専用の分析機が必要。その名を「MS Nose(エムエスノーズ)」という。計測したい食品を食べている人の鼻にホースを差し込み、そこから吸引した口腔内の空気に高電圧をかけ、イオン化した成分を測定する。原型は1996年に英国ノッティンガム大学のアンディ・テイラー名誉教授が開発した。

 これに着目したニチレイは、現・技術戦略企画部基盤技術グループマネジャーの畠山潤氏が主導し、2008年からテイラー名誉教授との共同研究を開始。独自の改良を経て、15年冬から「MS Nose 2」の稼働にこぎ着けている。では、このエムエスノーズを使うと、食品開発はどう変わるのか。

エムエスノーズ2は、呼気中の微量な成分を高感度で短時間に分析可能という
エムエスノーズ2は、呼気中の微量な成分を高感度で短時間に分析可能という
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おいしい低脂肪カレーはどう作る?

 食品開発における1つの好例が、低脂肪カレーの開発だ。低脂肪を実現するにはカレーに含まれる脂肪分を減らすのが当然手っ取り早いが、香りは脂肪分に溶けやすいため、味わいのバランスが大きく崩れてしまう。具体的には、通常と同じ量のスパイスを配合していると、「低脂肪カレーではクミンなどスパイスの香りが立ちすぎる」(畠山氏)ことが、エムエスノーズによる分析で判明した。

 そこで畠山氏は、エムエスノーズを使ってスパイス由来のレトロネーザルアロマの最適解を分析した。例えば、脂肪分10%の通常のカレーで100グラム当たり4グラム入れていたクミンを、脂肪分5%に半減させた低脂肪カレーでは2.96グラムに減らすと、スパイス由来の香り立ちが通常と同じ状態、すなわち「おいしさ」を保てることが分かった。カレーの主要スパイスであるコリアンダーとターメリックについても同様にエムエスノーズで最適解を探っており、「現在は脂肪分2.5%まで下げても、香りの品質を変えずに低脂肪カレーを実現できることを確認している」(畠山氏)と話す。

低脂肪カレー(脂肪分5%)にしても、クミンの量を調節することで通常のカレーと同様の味わいに(出所:ニチレイ資料より)
低脂肪カレー(脂肪分5%)にしても、クミンの量を調節することで通常のカレーと同様の味わいに(出所:ニチレイ資料より)
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 もう1つ、分かりやすいのが、テイラー名誉教授が研究したミント味のガムの例だ。ガムのミント味は通常5分程度しか維持できず、それを長持ちさせるにはどうすべきか。単純にミント成分を増量しても、味の持続時間は変わらない。それが、ガムメーカー各社が長年頭を悩ませてきた課題だった。

 そこでエムエスノーズを使ってテイラー名誉教授がレトロネーザルアロマを分析すると、実は20分たっても口腔内にはミント味の主成分であるメントンの香り自体はほとんど減らずに残っていた。では、なぜミント味は長持ちしないのか。さらに分析を進めると、口腔内でメントンの香りは長く維持されているものの、2~3分程度で甘味成分(スクロース)が大きく減退していることが分かった。つまり、人間がミント味を感じるメカニズムとして、甘味成分が重要な役割を果たしていたのだ。実際にメントンの量を変えずに甘味成分を増やしたところ、ミント味の持続時間は30分程度まで大きく延ばすことができたという。

 このように口腔内のレトロネーザルアロマに着目すると、これまで理解されていなかった「おいしさ」の秘密が解明される。ニチレイは、この技術を使って新規事業の創出を目指している。例えば、ユーザーの食の「嗜好性」とそのときの「気分」を掛け合わせて、独自開発のアルゴリズムで個々人に合ったレシピなどを提案するサービス「conomeal(このみる)」(関連記事)など、構想中の新事業に生かしていく構えだ。「エムエスノーズの分析データを蓄積して『おいしさの見える化』を進め、将来的には一人一人に合ったおいしさの提供、食のパーソナライズ化を実現していきたい」(畠山氏)という。

 こうした食品の香りとおいしさの関係に着目したアプローチは、植物由来のタンパク質で作られた「植物肉」や、「培養肉」などの次世代食品の開発にも生かせる。これまでと全く異なる原料と製造方法でおいしさをいかに表現するかが課題となる中で、「口の中で何が起こっているか」を定量的に把握することは1つの突破口になり得るだろう。実際、植物性の“卵”や、和牛の培養肉の開発で知られる米スタートアップ、JUST(ジャスト)の研究者も、「卵の味わいの決め手となるのは、鼻に抜ける『香り』と『食感』をいかに再現するかということ」と語っていた(関連記事「味の素OBが米国で挑戦 『植物卵』『培養和牛』が世界の食卓を救う」)。

 エムエスノーズの知見で、あらゆる食品のおいしさがアップデートされていくことに期待したい。