脱“痛勤”を目指し、東京都が2019年7月、「船通勤」の社会実験を始めた。国内有数のビジネス街・日本橋と、タワーマンションが林立する勝どきを小型船で往復する。“一般人”として乗ってみたところ、新交通としてMaaS(モビリティ・アズ・ア・サービス)の一角を担う可能性を感じた。

東京都は日本橋を発着するコースで、船通勤の社会実験に乗り出した
東京都は日本橋を発着するコースで、船通勤の社会実験に乗り出した

 日差しが刺すように熱い。朝からぐんぐん気温が上がった7月末、日本橋船着場へと向かった。東京五輪開幕まで1年を切り、橋のたもとには五輪のシンボルマークが登場。早くも祝祭ムードが広がっていた。

 川べりではためいていたのは、「東京舟旅」と書かれたのぼり旗。受付で予約完了メールを見せると、名刺大の乗船チケットを渡された。「真夏のらくらく舟旅通勤」。これが、今回の社会実験の名前である。

 運航日は、7月24日から8月2日の平日8日間。日本橋船着場と朝潮運河船着場(勝どき桟橋)を小型船6隻で結ぶ。午前7時半から同9時まで、15分刻みで1日当たり各7便計14便が行き交った。

 社会実験とあって、運賃は無料。今回は、日本橋を午前7時半に出る初便に乗り、勝どき桟橋を同8時45分に出発する便で帰る計画を立てた。果たして「ラクラク」と行くだろうか。

ビジネス客は半数、30分の「舟旅」

 停泊していたのは、屋根のある小型船。乗り込むと、既に30人以上が出発を待っていた。スーツ姿のビジネスパーソンは、半数程度。景色を楽しみたいからだろう。日除けになる客室内ではなく、舳先に座る人のほうが多い。“人口密度”は予想以上に高かった。

 船のメリットは何といっても渋滞がないことにある。日本橋はかつて魚河岸として栄え、船が多数行き交っていた。しかし、今や見る影もない。交通量が圧倒的に少ないぶん、遅延のリスクは皆無に近い。

 実際に船は定刻通り、動き出した。出発アナウンスもなく、くるりと向きを変え、東京のベイエリアに向かって舟旅がスタート。思いの外、速度は遅い。時速15~20キロで、某アトラクションのように、ゆっくりと進んでいく。船内を見渡すと、皆一様にスマートフォンを構え、写真や動画を撮影していた。

出発前のアナウンスはなく、船は、ゆっくりと動き出した
出発前のアナウンスはなく、船は、ゆっくりと動き出した

 頭上には、首都高速道路が幾重にも走る。日本橋川を覆うこの首都高は東京五輪後、一部が地下へと移設される。ある意味、今だけの光景を目に焼き付けた。

 江戸橋を過ぎ、証券街を横目に、鎧橋、茅場橋、湊橋といくつもの橋をくぐる。このあたりは雑居ビルが多く、美観とは言い難い。10数分後、船は豊海橋を抜け、隅田川に入った。視界が一気に開け、左手遠方には東京スカイツリーがくっきりと見える。船はここで右折。広々とした水路をしばらく進むと、タワーマンションや超高層ビルが増え始めた。途中、日本橋方面へと向かう通勤客とすれ違い、ちょうど30分で“終点”勝どき桟橋に到着した。

豊海橋を通過すると、視界が一気に広がった。遠方には東京スカイツリーが見える
豊海橋を通過すると、視界が一気に広がった。遠方には東京スカイツリーが見える
超高層ビルを背に、日本橋方面へ向かう船と遭遇。船上から手を振ってくれた
超高層ビルを背に、日本橋方面へ向かう船と遭遇。船上から手を振ってくれた

 勝どきと言えば、タワーマンションのイメージがあるが、オフィス街でもある。この船着き場は晴海トリトンスクエアに近接。大型商業施設とオフィスタワーを併設した大規模複合開発で、ここで働く人にとっては、列車より船のほうが「ラクラク通勤」できそうだ。最寄りの勝どき駅は、都営大江戸線でも有数の混雑駅で、最近ホームが増設されたとはいえ、地上に出るのにも相当時間がかかるからだ。

朝潮運河船着場に到着し、下船する乗客。スーツ姿は半数程度だった
朝潮運河船着場に到着し、下船する乗客。スーツ姿は半数程度だった
日本橋から乗って来た船
日本橋から乗って来た船

 実際に、船着き場から勝どき駅まで歩いてみた。歩道には「午前7時から午前10時は大変混雑します」との看板が掲出され、列車が到着するたびに、駅の出入り口から、大量の人が吐き出される。近くのベーカリーはざっと20人が列をなし、コンビニエンスストアですらレジ待ちの列が続いていた。

午前8時過ぎの勝どき駅。出入り口から、通勤客が吐き出されていく
午前8時過ぎの勝どき駅。出入り口から、通勤客が吐き出されていく

 勝どき桟橋に戻ると、往路とは別の船が待っていた。今回の社会実験は、複数の事業者に運航を委託しており、どの船になるのかは乗るまで分からない。全く屋根がない船もあれば、屋根付きでコンセント完備の船もある。雨天の場合はポンチョを貸し出すが、あまりに荒天の場合は運航を休止するという段取りだった。

乗るまでどの船になるかは分からない。屋根のないタイプもあった
乗るまでどの船になるかは分からない。屋根のないタイプもあった

日本橋―勝どきの想定運賃は?

日本橋へ向けて出発する船。日差しが強烈で、暑さ対策も必要だと感じた
日本橋へ向けて出発する船。日差しが強烈で、暑さ対策も必要だと感じた

 復路で乗り込んだのは、頭上の一部が屋根で覆われたタイプ。乗客は30人程度。通勤にしては遅い時間帯だからか、スーツ姿は数えるほどしかいなかった。出発早々、強烈な日差しが差し込む。10分ほど揺られると、首都高の橋脚が見えてきた。ゴールは近い。所要時間は25分だった。

日本橋の頭上へと続く首都高速道路が見えてきた。ゴールはもうすぐそこだ
日本橋の頭上へと続く首都高速道路が見えてきた。ゴールはもうすぐそこだ

 実は、日本橋と勝どき桟橋を結ぶ定期船は既にあり、毎週土日に運航している。運賃は大人1000円、子供500円。もし船通勤を事業化する場合は、この運賃が基準になりそうだ。

 実際にアンケートには「どれくらいの運賃であれば利用いただけますか」との問いがあり、300円程度、500円程度、700円程度、900円程度、1000円程度、その他の6つの選択肢が用意されていた。現状では運賃を300~1000円の幅で想定していることが読める。

 地下鉄で日本橋から勝どきまで移動すれば、必ず1回乗り換える必要がある。都営線を乗り継ぐ最安ルートで運賃は220円(ICカードで216円)。所要時間はおおむね20分。一方、船は直通で25~30分で到着する。“想定価格”は高めだが、この価格差をもって「船通勤はビジネスとしては成り立たない」と結論付けるのは早計だ。

新たな「有料着席サービス」?

 東京のベイエリアは再開発が急速に進み、現在進行形で人口が急増している。今後もタワーマンションが次々と完成し、五輪後には晴海の選手村跡地に5600戸余り約1万2000人の住民が増える。交通網をどうするかは、まさに喫緊の課題だ。晴海や勝どきと銀座を結ぶ「臨海地下鉄」はまだ構想段階であり、実現するかは未定である。

 乗船時間こそ長いが、船は渋滞にはまることがない。しかも、船上からの水景を楽しみながら、クルーズ気分で出社できる。毎日とまでいかずとも、週に1度は使いたい人がいるのではないか。

 例えるなら、私鉄各社が導入を進める「有料着席サービス」のイメージだ。割り増し運賃を払う代わりに確実に座れる。数百円、路線によっては500円出してでも、このサービスを選ぶ人は結構多い。「船通勤」も脱“痛勤”を望む人々の受け皿となり得る。多少値は張っても、勝機はありそうだ。

 課題は、荒天時には欠航せざるを得ない点にある。梅雨時はもちろん、近年は突発的な自然災害も多い。少なくとも屋根は必須であり、船そのものを抜本的に補強、補修する必要もあるだろう。

 アンケートでは「船着き場にあるとよいと思うもの」として、「トイレ・授乳施設」「休憩・待合所」「運航に関する案内表示」「雨や日除け用の屋根」「周辺の案内地図や案内誘導の標識など」とあった。事業化に当たっては、バスの停留所と同等以上のインフラ整備も求められる。

今回の社会実験のルート。東京都内は縦横無尽に川が流れており、他のルートでも運航できそうだ
今回の社会実験のルート。東京都内は縦横無尽に川が流れており、他のルートでも運航できそうだ

 しかし、船通勤は、こうした諸課題を補って余りあるポテンシャルを秘めている。日常生活ではあまり気に留めないが、東京は四方八方に川が流れる「水都」でもある。今回のルートはあくまでも一例に過ぎず、水路をうまく活用することで、鉄道やバスでは行きにくい場所を数多く結ぶことができる。

 アンケートの選択肢には「船を交通手段として利用してみたいと思う目的地」として「浅草方面」「日の出・竹芝方面」「羽田空港方面」「お台場・臨海副都心方面」「両国方面」とあった。船着き場さえ整備すれば、鉄道でいう“途中駅”も配置でき、運航速度を少し速めれば、「速達サービス」も打ち出せる。

 日本橋川は川幅が狭いため、大型船の乗り入れは難しい。このため、今回の社会実験では定員を40人に絞った。小型船に頼る以上、相当便数を増やさないと、主たる交通手段にはなりえないが、満員電車の“抜け道”としてなら存在意義は十分ある。

 定時性が高いため、便数次第ではMaaS(モビリティ・アズ・ア・サービス)の一部に組み込めるかもしれない。電車やバス、タクシーなど既存の公共交通と、船を乗り継ぐルートが選べるようになれば、まさに「モビリティ革命」の象徴になりそうだ。

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