デジタル技術で人間の能力を高める「人間拡張」に関する研究・開発が活発になっている。日経クロストレンドなどの主催で2019年5月に都内で開かれた技術イベント「テクノロジーNEXT 2019」では、「人間拡張パネルディスカッション」を開催。キーパーソンが人間拡張がもたらす社会の変化について議論を戦わせた。
2019年5月27日に開かれたパネルディスカッションのテーマは、「最新技術で挑む“ヒト”の拡張、身体能力はどこまで高められるか」。宇宙航空研究開発機構 新事業促進部長 岩本 裕之氏、元プロ陸上選手 Deportare Partners 代表 為末 大氏、産業技術総合研究所 人間拡張研究センター 研究センター長 持丸 正明氏が登壇した。
冒頭、モデレーターを務めた日経BP 技術メディア局長 河井 保博氏は、「人間拡張のテクノロジーには、AR(拡張現実)、VR(仮想現実)、BMI(ブレイン・マシン・インターフェース)などがある。他の技術とも組み合わせて、どのようなことができ、どんな世界観がこの先広がっていくのか」と疑問を投げかけた。
人間拡張(human augmentation)の“拡張”には、増強という意味合いが含まれている。つまり、テクノロジーで人間の能力をさらに高めていく取り組みが人間拡張だと定義できる。
この視点に立ち、まず為末氏はスポーツの世界では人間拡張に以前から取り組んできたことを紹介。例えばスピードスケートの分野では、「ブレード」と「かかと部分」が離れるシューズ「スラップスケート」の登場で、清水宏保選手が1998年の長野オリンピックで金メダルを獲得したと紹介。「選手の能力を拡張するスラップスケートにうまく適応できた選手はますます強くなった一方、対応できなかった選手は世界トップクラスであってもランクを大きく下げていった」(為末氏)。「人間拡張の技術が登場したときも、適用できる人とできない人がでてくる。つまり、全ての人の能力を高める技術ではない。これはすごく重要なことだ」とした。
さらに為末氏は、陸上競技における厚底シューズを取り上げた。「反発力を上手に使えば記録が伸びるシューズは、履いていることで能力を高めるテクノロジーと言える。ただ行き過ぎるとスポーツの世界では“ドーピング”と呼ばれる」(為末氏)。一方、一般社会にはドーピングに対する規制がないとし、テクノロジーで人間の能力を拡張し始めた今、「私たち人間は、どこまで踏み込んでいっていいのかを考えるべきである。テクノロジーを使える人間と使えない人間の差がすさまじく大きくなってしまうからだ」と述べた。
例えば障害者スポーツの世界では、走り幅跳びでドイツのマルクス・レーム選手が義足で8メートル51センチ近くを跳ぶ。「2020年の東京五輪では、パラリンピアンが初めてオリンピアより遠くに跳ぶかもしれない。だとすれば今後は、高齢者に対して歩行をサポートする技術として応用することも人間拡張の重要なテーマになると考えている」とも語った。
健常者と障がい者の「標準」があいまいになる
続いて持丸氏が、現在の国内における人間拡張の研究の実情について説明した。持丸氏によれば、拡張すべき人間の能力を「身体」「感覚」「認知や知識」「コミュニケーション」などに分け、さらに拡張する内容を「加速」「向上」のように分離して多くの研究が個別に進められている状況だという。そして現在は、「パワーアップ」「テレイグジスタンス」「BMI」「テレコミュニケーション」といった個々の技術を、いよいよ統合的に研究を進めていくべきタイミングに来ているとの見立てを示した。
モデレーターの河井氏がここで、人間拡張によってもたらされる可能性を踏まえ、どのような社会が実現していければ良いのかについて、各パネリストに意見を聞いた。
為末氏は、「オリンピアンと競うパラリンピアンに対して、健常者のようにすごいと、無意識のうちにある『標準』を基準に何かが損なわれていればそれを補うことが大切だと我々は考えてしまいがちだ」と語った。ただレーム選手のように、補うことで標準を超える現象が起こると、一体何が標準だったのかが分からなくなり、「人間観が変わる。そんな社会が訪れたら面白い」(為末氏)との意見を述べた。
一方持丸氏は、人間拡張は「環境を変える」「環境を拡張する」ものだとした。例えば、部屋の壁の色がピンク色なら明るい気持ちになって話しやすくなるなら、環境を変えることで人間の能力を拡張できると考えられるとした。
「人間拡張には、人間が得る外界の情報そのものを拡張する技術も含む。その意味でVRやARは、人間拡張にとって重要な技術だ。人間拡張で環境を変えることで人間の能力を引き出せれば、新しい社会が実現すると言える」(持丸氏)。
一方、テクノロジーで人間の能力を拡張していくには、テクノロジーがそれを使う個人に合うかどうかも検討しなければならない。それには、利用者から継続的にデータを収集し、技術開発にフィードバックしていく体制の整備が求められる。
こうしたデータの継続的な収集と活用の重要性について岩本氏は、「宇宙空間での人間拡張を考えたときこそデータが極めて重要だ」と指摘した。宇宙空間のような新しい場所や新しい環境下では、人間の身体が適応できるかどうか判断するにはデータの収集が欠かせない。同氏は、骨粗しょう症の薬を宇宙空間で人間に投与し、毎日2時間運動するとどのような効果があるか研究しているという。
持丸氏も、人間拡張におけるデータの収集・活用の重要性を説いた。ランニング用の義足に小型のバッテリーや通信機器、センサーを付けることで、実際の競技中のデータを収集できる。義足の選手がどんなトレーニングをすれば効果があるのか検証可能になるという。
障がい者スポーツ選手に適したトレーニング理論や方法が確立されていくことで、パラリンピアンがオリンピアンに勝つ可能性が高まっていく。「そうなると、スポーツをしなかった障がい者もチャレンジしてみようと乗り出す機運が高まる可能性がある。結果、義足の開発・製造、レンタルサービスなどの新しいビジネスが広がっていく。非常に可能性ある面白い未来が広がっていくのではないか」(持丸氏)。
「ソーシャル・コンシャス」で社会のゆがみを防ぐ
ディスカッションの後半は、人間拡張は「どこまで許されるのか」をテーマに議論が交わされた。
まず為末氏は、「スポーツは『人間はどこまで行けるのか』を問い続けるものだった」と説明。それが、人間拡張の進展により「『人間はどこまで行くことが許されるのか』という問いに変わってきている。そういう世界になりつつあり、そこが問われている」との見解を示した。どこに一線を引き、線引きをどうすべきかを考えるべきだというわけだ。
持丸氏も「研究者・技術開発者の立場から、どこに線引きをすべきか、明確な答えは持ち合わせてはいない」としながら、「人間拡張によってもたらされる可能性のある『社会のゆがみ』について懸念している」とした。
持丸氏によれば、今のAI(人工知能)とロボットの技術を活用すれば、遠隔で人間が支援するとほとんどの業務を自動化できるという。「そうなると、深夜に店舗でロボットを働かせて、実はロボットを動かす人材を低賃金で海外で雇えるようになる。つまり人間拡張は世界を超えられる。しかし実際には世界はまだ国境で分断されている。そこにゆがみが生じる可能性がある」(持丸氏)とした。
もう一つ、懸念していることがあるという。「人間拡張技術で、個人が自分の好きな能力だけをどんどん高めていってしまうことだ」と持丸氏。例えば、ある地域に絵が描く能力だけを高めた人ばかりがいる状況になると、社会としてはマイナス面が出てくるかもしれない。
そこで今注目されている考え方が、「ソーシャル・コンシャス」だ。研究者や技術者が社会的な負の影響を予測しきれていない場合、まず小規模に技術の活用を始める。何かの予兆を捉えたら技術や制度にフィードバックし、直しながら拡大していくという研究のフレームワークである。「今後は、ソーシャル・コンシャスを考えながら研究を進めていくことが大切になる」(持丸氏)。
岩本氏は、宇宙開発が人類の活動領域の拡大であることに触れながら、「人間拡張で人類の活動領域が広がっている」と説明。しかも人間が現地で活動する必要はなく、「はやぶさ」のような無人探査機やロボットが探査に行くことも人間の活動といえる。「人類がどこまで『動ける場所』『見られる場所』『触れる場所』を増やしていけるか、どこまで許されるのかを常に考えながら、研究開発に取り組んでいく必要がある」(岩本氏)という見解を示した。
最後にモデレーターの河井氏は、本格的な広がりをみせる人間拡張について、「現在の状況と今後のさらなる進展のための懸念も浮き彫りになった」と述べ、ディスカッションを総括した。
(写真/新関雅士)