59年の歴史を誇る『三省堂国語辞典』が、プロ野球チームとのコラボでヒットを連発している。2018年の「阪神タイガース仕様」に続き、19年の「広島東洋カープ仕様」も好調で、発売からひと月足らずで1万部以上を売り上げた。このユニークな国語辞典はどんなマーケティングから生まれたのか。
ファングッズとしての新市場を開拓
『三省堂国語辞典 第七版 広島東洋カープ仕様』は発売前の予約だけで、2019年2月16日のAmazon.co.jp売れ筋ランキングの辞典部門で1位を獲得。さらに同年3月4日の発売からひと月足らずで、初版2万部の半分を超える1万部以上を売り上げた。
マーケティングを担当する三省堂 販売部 販売宣伝課長の佐藤洋一氏は言う。
「辞典は1年かけてジワジワ売っていく商品なので、発売1か月で初版の20%もいけば相当いい。それが『オープンネットワークWIN』(注:日本出版販売の出版社向けマーケット情報開示システム)からの推定値によると、(『広島東洋カープ仕様』の)消化率は50%を超えている。(発売1カ月で)通常の年間売り上げの半分くらい売っているイメージ」
同社は通常の『三省堂国語辞典 第七版』も発売しており、そちらの売れ行きは例年の同時期と変わらず、「影響はない」(佐藤氏)という。
つまり「広島東洋カープ仕様」は、既存の『三省堂国語辞典』と自社内で競合することなく、「カープの“ファングッズ”として買う国語辞典」という新たな市場を開拓したわけだ。
では、三省堂はどんな戦略でカープファンの心をつかんだのか。
11人のカープレジェンドが登場
普通版の『三省堂国語辞典』のケースは、オレンジの地色に辞書名があしらわれた極めてシンプルなデザインだ。
これが『広島東洋カープ仕様』のケースでは、同球団カラーの「赤」を基調として、マスコットキャラクターの「カープ坊や」が大きくフィーチャーされている。さらに辞典自体の表紙も真っ赤。そこに大きく、白字で「Carp」のロゴが施されている。
通常の“コラボ辞典”では、ケース、表紙、見返し、扉などがコラボの対象と関連した特別バージョンとなるが、辞典の中身に関しては、普通版の内容そのままなのが一般的だ。
ところがこの辞典は違う。中身の「用例」まで「広島東洋カープ仕様」なのだ。
たとえば、普通版では一般的な用例のみだが、「広島東洋カープ仕様」では、「鉄人」の項目に「③衣笠祥雄の愛称(アイショウ)。」という語釈、「炎・焔」の項目には「ーのストッパー〔=津田恒実〕」という用例が、新たに赤字で追加されている。
この「衣笠祥雄」のように、誰もがカープレジェンドと認める11人の選手名が用例に登場するだけでなく、数多くの広島東洋カープにちなんだオリジナル用例が掲載されている。興味深いのはそのオリジナル用例の選び方だ。
社内の熱烈なカープファンを招集
この辞典の編集リーダーを務めた三省堂 出版局・辞書出版部の奥川健太郎氏は「総務が当時の社員159人から熱烈なカープファンをリサーチして、『広島東洋カープ仕様』をつくるプロジェクトチームを作りました」と説明する。国語教科書、英語教科書、営業統括部など、ばらばらの部署から4人のカープファンが選ばれ、アドバイスをもらうことになった。
用例を新たに編集する際、とりわけ注意したのが「巨人がらみ」の項目だった。奥川氏が「『巨人』だけは残さないようにした」と振り返り、佐藤氏も「シラミつぶしに調べた」と続ける。普通版の「軍」の用例の「巨人(キョジン)軍」は「打倒(ダトウ)巨人(キョジン)軍」に変更され、「下馬評」の用例は「下馬評では巨人(キョジン)が有利と言われていた」のあとに「が、優勝したのはカープだった」が追加された。
こうして中身の用例まで「広島カープ仕様」となることで、『三省堂国語辞典 第七版 広島東洋カープ仕様』は、辞典として異例のヒット商品となった。
この「国語辞典×プロ野球チーム」というコラボ企画は、18年3月に発売され、初版2万部、重版2万部、計4万部発行の大ヒットとなった『三省堂国語辞典 第七版 阪神タイガース仕様』から始まった。その斬新なアイデア誕生のきっかけは、意外なものだった。
それは飲み屋の一言で始まった
取次への出荷や販売業務に携わる佐藤氏たち販売部と、営業をバックでサポートする営業統括部の4人は、17年夏のある日、集まって酒を飲んでいた。8月末の決算が目前に迫り、話題は自然と同社売り上げの3分の1を占める辞典・辞書の話になった。
辞典や辞書の売り上げが厳しいのはどこの出版社も同じだが、学研教育出版は『スター・ウォーズ英和辞典シリーズ』、小学館は『ドラえもん はじめての辞典シリーズ』など、キャラクターとコラボする辞典を開発し、人気を博していた。
「今年も厳しいね」「何かブレークスルーできる企画はないかね」と佐藤氏らが話していると、営業統括部長がぽつりと言った。
「タイガースってどうなの?」
「(彼は)巨人ファンですから、勘としかいいようがない。タイガースのファンは非常に熱心でパワーを感じる。しかも球団公称で、『虎党』は1000万人いるといわれている。インパクトを求めるのであれば、やはりタイガースファンじゃないか、と」(佐藤氏)
酒の場での思いつきということもあり、だめもとで、これまでつながりのなかった阪神タイガースに問い合わせてみた。すると、意外にもあっさり「こういう条件です」と返事がもらえた。
17年9月、「タイガース仕様」の企画が編集会議にかけられた。「辞典や辞書は『編集委員』といわれる編者の著作物ですので、まず先生方の許諾が必要でした」(奥川氏)。
ならば、そうそうたる国語学者の編者たちに「由緒ある三省堂国語辞典を阪神タイガースの装丁で」などと話を持ちかけて、怒られはしなかったのか。
中身も変える前例のないコラボ辞典
「われわれにとって『(コラボ商品である)異装版』は、外側だけ変えるイメージだった。しかし先生方から、『少し踏み出したらどうか』『中身も少し触ったら?』というご意見が出た」(奥川氏)
意外にも、編者たちからの提案によって、ケース、表紙、見返し、扉だけでなく、中身まで手を加える、前例のない“異装版”の国語辞典を作ることになった。
同じ頃、三省堂の営業部長会で「営業部でこういうアイデアがある」という話が出た。すると情報共有のため、いつもこの会議に加わっている、出版局トップで熱烈な阪神ファンの瀧本多加志常務取締役出版局長が言った。
「何? それはいい。俺がやる!」
「即断だった。ここには虎がいて、帯には歌詞を掲載して、見返しには球場写真、後ろには球団旗というデザインのイメージと企画書が1時間でできた」(佐藤氏)
瀧本常務は【颪(おろし)】の項目の「筑波(ツクバ)颪」を「六甲(ロッコウ)颪〔阪神タイガース球団歌の意味にも〕」に、【阪神】の項目の「阪神工業地帯」を「阪神タイガース、フレフレフレ!」に変えるなど3カ所の用例の書き換えから、阪神タイガースの球団との細かい交渉まで、精力的に進めた。
その一方で、前例のない商品のため、初版部数の決定はもめていた。
「ライセンス契約は1年なので、1年間で売り切る部数を検討した。既存の普通版の数字を念頭に置きながら、球団に支払うロイヤルティーと利益率を千部単位で計算して、年間でこれだけ売れてこれだけ戻ってきたときに『ここからは赤字だ』というシミュレーションをした結果、“初刷り2万部”という数字を出した」(佐藤氏)
18年2月28日の発売日が迫る中、佐藤氏らは大胆なマーケティング戦略を仕掛けた。通常は発売日のかなり前から情報を業界に小出しにして、書店から受注する。しかし、この「阪神タイガース仕様」に関しては、事前に情報を全く出さず、同年1月18日、いきなりプレスリリースを打ったのである。
地域性のマーケティングを読み誤る
「そうしたら、その日じゅうにネットニュースが流れて、Yahoo!ニュースに転載され、翌日の『デイリースポーツ』朝刊の芸能・社会面に大きな記事が出ました」(佐藤氏)
その後、テレビ、新聞、ネットニュースなどから取材が殺到。それらの宣伝効果もあり、当面は最初の配本で足りるが、在庫が切れる可能性も見えてきたため、2月中旬、さらに2万部を増刷した。
結果、『三省堂国語辞典 第七版 阪神タイガース仕様』は4万部発行という辞典では異例のヒットとなった。この「阪神タイガース仕様」の成功に続く形で生まれた「広島東洋カープ仕様」も、発売1カ月足らずで初版2万部の半分以上を売り上げるヒット商品となった。
「あくまでも『WIN』の指標だが、19年4月2日現在、出荷に対してのPOS(販売時点情報管理)の売り上げ(消化率)が全国で58.2%、広島県では88.8%という高い数値で、現在、三省堂の社内在庫はほぼ底をついている状態」と佐藤氏は話す。続けて、今回のマーケティング戦略における反省点も口にした。
「出荷全体の約25%は広島県に割り当てたが、営業も人間なので、ある書店さんに何百冊と入れる勇気がなかった。結果的にそれくらい入れても良かった所もあり、勉強になった。地域性をもう少しマーケティング的に見ておけば、もっと集中的な配本ができたかもしれない」(佐藤氏)
次のコラボは市場の声で決める
「阪神タイガース」「広島東洋カープ」とヒットを連発して、次はどんなコラボを計画しているのか最後に尋ねた。
奥川氏は言う。
「読者の意見をいただきながらの二人三脚という感じ。市場の動向、需要、読者の気持ちが一番大事なため、今回のはがきを熟読し、ヒントや発想が得られればと思っている」
また佐藤氏はこう話す。
「2球団出すと『ぜひ12球団コンプリート』という声もあるだろう。サッカーのJリーグでも『サンフレッチェ広島版を』と広がっていくものだ。そうしたお客様の声を聞きながら、決めていきたい」
今後、市場からどんな声が上がり、どんなコラボ国語辞典が生まれるのか、今から来年の春が楽しみだ。
(写真/荒井貴彦、写真提供/三省堂)