広島お好み焼きを象徴する店といえば、「みっちゃん総本店」だろう。焼け野原となった戦後の広島に、お好み焼き文化を広めた功労者で、全国展開せず、広島でその味を守り続けてきた。そんな「みっちゃん」が2019年1月29日、東京に進出した。歴史的な出店は、旧友とのあうんの呼吸で生まれた。
“サラリーマンの聖地”としてにぎわう東京・新橋。烏森口を出てすぐの路地裏に、ガラス張りのグルメビルが誕生した。「eatus新橋(イータス新橋)」だ。「食の楽しみを足す」ことをコンセプトに、地下1階から地上8階まで全9店がひしめく。ひときわ注目を集めるのが、2階の「みっちゃん総本店」。広島お好み焼きの元祖が、ついに東京へと攻め込んだ。
みっちゃん総本店は1950(昭和25)年に創業した。井畝井三男(いせいさお)が、広島市中区の中央通りに「美笠屋」の名で屋台を構えたのが始まりである。井三男に代わって店を切り盛りしたのが、長男の“みっちゃん”こと、井畝満夫(いせみつお)。数ある屋台から、すぐに見つけてもらえるようにと、53(昭和28)年、自らの愛称を掲げ、店名を「みっちゃん」に改めた。
当時、お好み焼きと言えば、おやつだった。クレープ状の生地にネギとわずかな野菜をのせて焼き、半月状に折り畳む。生地の表面にウスターソースを塗って木の皮にのせ、新聞紙に包んで持ち帰るスタイルだったという。みっちゃんは、自らのひらめきを次々と形にし、広島お好み焼きの原型を作り上げた。
例えば、ウスターソースの製造過程で廃棄される沈殿物に着目して、ドロッとしたお好みソースを考案。具材としてキャベツともやしを組み合わせたのも、お好み焼きにそばをのせたのも、ヘラで食べるスタイルを広めたのも、みっちゃんの功績だ。
今や広島のソウルフードとして確固たる地位を築き、八丁堀本店、広島駅構内など、広島県内に7店舗を構えるみっちゃん。しかし、一度も県外に進出することなく、“門外不出”のようにその味を守り抜いてきた。
「東京だけでなく、大阪も含めて、いろいろな方からお声掛けいただいた。でも、なかなかこちらの条件をのんでいただけなかった」。みっちゃん総本店を運営する、いせ(広島市佐伯区)の小林直哉社長はこう振り返る。
小林氏は、出店をオファーした企業に対し、必ずこう持ち掛けてきた。「最低3人、半年間はうちに来て修業をしてほしい」。
みっちゃんでは、生地伸ばしと盛り付け、焼き、仕上げと、複数人で分担して調理する。こうすることで、味の均一化を図っているのだ。そのため、焼き手は最低3人必要。その一人ひとりが、本場広島の地で技量を積み、一人前の焼き手として、広島人の舌をうならせて初めて「みっちゃん」ののれんを掲げてほしい、との思いがあった。
広島東洋カープの躍進に後押しされるように、同業のお好み焼き店が次々と東京へ進出するなか、小林氏も東京というマーケットに関心がなかったわけではない。しかし、修業という絶対条件を快諾してくれるパートナーがおらず、なかなか踏み出せずにいた。そんな折、偶然出会ったのが、10代からの旧友、福島智雄氏だった。
「そりゃ、そうじゃろ。恥ずかしい店は出せん」
小林氏から見れば、福島氏は地元広島の先輩。うどんチェーン「つるとんたん」や高級温泉旅館「ふふ」で知られるカトープレジャーグループで、レジャービジネスを担うTRIPLETS(トリプレッツ、東京・渋谷)のCEOを務める。
2人は2年前、久々に再会。思い出話に花が咲き、話題は互いの近況へと移る。福島氏が、何気なく聞いた。「お前、東京とか考えとるんか」。
小林氏が口を開く。「出したい気持ちはあるんですけど、うちは、修業が絶対条件なんですよ。味だけは絶対に守ってもらわないといけない。それをちゃんとやってくれさえすれば、全面的に応援していきたい」。
これまで多くの企業が、「半年以上の修業」「3人を送り込む」という条件に、なかなか首を縦に振らなかった。しかし、福島氏はいとも簡単にこう言い放った。
「そりゃ、そうじゃろ。広島人だからこそ(修業の大切さが)分かる。恥ずかしい店は絶対に出せん」。新店のプロデュースと運営をTRIPLETSが担う形で、「みっちゃん東京店」を出す計画がスタートした。
福島氏が広島へと送り出した従業員は、4人。みっちゃん側は、彼らを社員同等の扱いで受け入れ、みっちりとお好み焼きの神髄を教え込んだ。
修業は当初、半年間の予定だった。しかし、4人とも「もう少し広島にいたい」と志願し、期間は2カ月延びた。修業中の身とはいえ、新メニューの開発に携わり、東京・銀座の広島県アンテナショップにも、みっちゃんの焼き手として“逆出張”。
やがて、最も忙しい広島駅の店を任せられる戦力に育ち、八丁堀本店の店長が「(うちの店に)残ってほしい」と懇願するほど、めきめきと腕を上げた。ついに、勤続30年の常務も、一人前の焼き手として、彼らにお墨付きを与えた。
コイ、けん玉、厳島神社?店内は広島尽くし
「広島と1ミリのブレもないお好み焼きが焼ける」(福島氏)手ごたえは、つかめた。あとは東京のどこに店を出すか、だ。数ある候補の中から、新橋に絞り込んだのは、ちょうどリーシング(テナント誘致)の声が掛かったからだ。
「ニュー新橋ビルから徒歩10秒。ここなら、駅前でシンボリックな店を作れる」と、福島氏は決断した。東京新橋店はカウンター6席、テーブル13卓54席、個室1室があり、一歩入れば、随所に広島が感じられる。
店内は「広島レッド」で彩った。真っ先に目に飛び込んで来るのは、ガラス一面に描かれた、悠々と泳ぐ36匹のコイの群。広島のマツダスタジアムの壁画を担当した絵師・木村英輝氏が筆を執り、「Go Forward , Red Carp.」としたためてある。
個室は、掘りごたつ式で8人まで着席できる。世界遺産・厳島神社をモチーフとしたデザインで、柱は朱色、壁面にはやはり木村氏がシカとモミジの絵を描いた。トイレのピクトグラム(絵文字)は、広島県廿日市市発祥のけん玉で表現。カウンター席の下部に、広島県のマーク(県章)をアクセントとして加えるなど、本店以上に細部まで広島を感じる内装に仕上げた。
コンセプトは伝統と革新。本店の味を忠実に再現するため、お好み焼きは、めんやソースに加え、細もやしまで広島から直送。肉玉子(850円・税別)をはじめ、定番のお好み焼きを「本店と大差ない価格」(小林氏)で提供する一方、新たな試みとして“ちょい飲み”に向く一品料理やワインをかなり充実させた。
「東京、それも新橋という場所を考えたとき、平日の夕方はオフィスワーカーの居酒屋需要が見込める」(福島氏)。お好み焼きを味わうだけでなく、お酒を飲んでしめるという「普段遣い」を強く押し出した。
牛の希少部位を使った「コウネ焼」(740円・税別)や「ウニホーレン バゲット付」(1580円・同)など広島名物に加え、「砂肝とじゃこの濃厚アヒージョ」(850円・同)など、広島の店にはないメニューも多数そろえた。さらに、これら料理に合うワインを、エノテカのソムリエと共に厳選。お好み焼きなら「味わい深い赤」を、海鮮を使った鉄板メニューには「爽快な白」を、前菜には「シュワッとした泡」を、とペアリングを勧める。こうした店づくりは、小林氏の目にも新鮮に映った。
「広島の店にはない、東京の風を随所に感じる。例えば、巨大なコイの絵。これを広島でやると『カープのまねをしやがって』となるが、東京だから受け入れられる。けん玉のモニュメントは、広島の店ですぐにまねしたい。広島にいるからこそ、気付かなかったアイデアがあると、勉強させてもらった」(小林氏)。
一方、福島氏にとっても、今回は新たな挑戦だった。TRIPLETSは、温浴施設内のレストランや、グランピング施設の運営がメイン。独立した飲食店を手掛けるのは、今回のみっちゃんが初めてだった。「(広島から)離れたからこそ見えることがある。広島のよさと、広島の濃いなあ、癖が強いなあ、と思うところを、東京でどうバランスを取るか。ブレーンストーミングでキャッチボールを繰り返してきた」(福島氏)。
「『どこにでもある店』は、望まれていない」
では、次の一手をどう考えているのか。「10も20も店を出す気持ちはない。どこにでもある店というのは、望まれていないと思う。東京は広いが、それでも3店が限界。場所や店づくりも(小林氏の)許可を得ながら、東京だけではなく、広島を含めた全体に思いをはせてやっていきたい」(福島氏)。
実は、本家のみっちゃんでも、純然たるお好み焼き店から居酒屋風、レストラン風の店まで、1店1店異なる店づくりをしている。そして、店ごとにコンセプトやデザインを変える試みは、まさにカトープレジャーグループが得意とする手法でもある。「あえて超昔風の、ベタベタなお好み焼き店が東京にあってもいいと思う。カウンターだけで、それこそハチマキを巻いて焼いているような、ね」(福島氏)。
もちろん、新店を出す場合は、広島に出向いて修業する。「口うるさい広島人の前でお好み焼きを焼くのと、東京で焼くのとでは全然違う。『きょうはキャベツが煮えてないじゃないか』と広島弁で言われる経験をしていることが糧になる」と、小林氏も口をそろえる。
創業しておよそ70年。気付けば、間もなく平成が終わる。小林氏が配る名刺の裏には「広島のお好み焼きを全国のスタンダードに!」と書かれていた。「旧友だからこそ、言いたいことも言わせてもらっているし、逆にいろいろと言われることもある。そこは、すごくやりやすかった」(小林氏)。気心の知れた2人だからこそ、スムーズに出店まで突き進めた。戦後昭和の焼け野原から立ち上がったみっちゃんが、新時代に向け、力強い一歩を刻んだ。