日本のエンタメ史に輝く伝説のヒット作はいかにして生まれたのか。エンタメ社会学者の中山淳雄氏がテレビ、マンガ、ゲーム、音楽などのプロデューサーたちにインタビューした最新刊『エンタの巨匠 世界に先駆けた伝説のプロデューサーたち』から一部抜粋してお届けする。今回登場するのは『電波少年』を作った「狂気のテレビP」土屋敏男氏。

日経BOOKプラス 2023年2月20日付の記事を転載
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中山淳雄氏(以下、中山) 自己紹介をお願いします。

土屋敏男氏(以下、土屋) 土屋敏男と申します。1979年に日本テレビに入社してから半分は番組制作、もう半分はそれ以外の制作の畑におりまして、現在は社長室R&Dラボでスーパーバイザーをやっております。44年間、何かしら作ってきました。再々雇用で現在までいましたが、今年(2022年)でそろそろ退職しようかなと思っているところです。

土屋氏はネット配信(第2日本テレビ)などにもいち早く取り組んできた(写真/稲垣純也、撮影協力/かふぇ あたらくしあ 以下同)
土屋氏はネット配信(第2日本テレビ)などにもいち早く取り組んできた(写真/稲垣純也、撮影協力/かふぇ あたらくしあ 以下同)

いかに毎回違うことをやるか、しか考えなかった

中山 やはり土屋さんといえば『電波少年』ですよね。当時あまりに衝撃の番組でした。視聴率はどのくらい伸びていったのでしょうか?

土屋 右肩上がりでしたね。最初は「アポなし」から始まって、ヒッチハイク、懸賞生活などコンテンツをどんどん変えていって、1993年から98年までずっと上がり続けて、ピークは視聴率30%までいきました。その年の平均視聴率は25%を超えていた。そのあとは下がり始めましたが、常に新しいことを仕掛けて、走り切った感じです。

中山 土屋さんの番組は私も中学高校時代にテレビにかじりついてみていました。とても個性的な番組でしたが、こういった企画には、どなたかメンターやベンチマークをしているプロデューサーなどがいらっしゃったのでしょうか?

土屋 いえ、特に他をみていた感じではないです。いかに毎回違うことをやるか、いかに過去の自分を超えるかしか考えてこなかったですね。

中山 あれだけ多くのアイデアは誰が出すんですか?

土屋 基本自分ですね。放送作家やディレクターが毎週ネタを出しますが、決めるのは自分1人です。もちろんボールの打ち返しとかディスカッションはしていて、放送作家などといろいろ話しながら進めますが、決めるときに多数決などはしません。100%自分。そこは大事なところです。

入社から13年間はダメダメだった

中山 『電波少年』を撮るまでの、最初の13年間はどんな感じだったんでしょうか?

土屋 ダメダメでしたね。フジテレビを意識しすぎて『ガムシャラ十勇士!!』とか『恋々!!ときめき倶楽部』とかパクリ企画ばかりをやって、ゴールデンタイムなのに視聴率1.4%という散々な結果で、2年間編成に飛ばされてました。だから暇だったというのが逆に『電波少年』に結びついた背景でもあります。

中山 若い頃に何か特別な才能を発揮していたとか……。

土屋 ないない(笑)。若い時にイケてる奴のほうが逆にダメになりませんか? おとなしくても、虎視眈々と上司の背中をみて、盗んでいる奴が伸びるんです。

権威になり始めたテレビのアンチテーゼ

中山 編成から制作に戻って「暇だった」土屋さんに声がかかって、『進め! 電波少年』が始まるわけですよね。

土屋 実はあれは『ウッチャン・ナンチャン with SHA.LA.LA.』の枠だったんですが、ここでもフジテレビが絡んでいて、『七人のオタク』の映画撮影があるから3カ月だけ映画に集中させてくれって内村・南原の事務所が言ってきたんですよ。「こっちはレギュラーだよ!?」というのがありましたが、その無茶が通るくらい当時のフジは強かったんですよね。

 それで1992年の7~9月がぽっかり空いてしまった。「どうする?」となって、ちょうど暇をしていた僕に「土屋、何かやれないか」と言う話が来たのが5月末です。

中山 え!? ほぼ1カ月で新しい企画って、ありえないスケジュールですね。

土屋 それもタレントは渡辺プロダクション(当時)の松本明子と、太田プロの松村邦洋という、全く無名の2人だけのアサインが決まっていました。僕も編成に異動させられる前の企画の失敗もあるし、逆に吹っ切れましたね。もう時間もないし、「誰も見たことがないことをやろう」と。行きたいところに行く、見たいものを見る、諦めない、その3つだけを決めて進めたんです。

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