台湾の百貨店を再生させ、老舗の倉庫会社を作り替え、果ては街ひとつを丸ごと変えてしまう。御年75歳の異端の経営者、中野善壽氏。私生活でも家もクルマも持たず、必要以上のお金はすべて寄付するなど、徹底したミニマリズムを貫く。その生き方には、コロナ禍に苦しむ今の日本へのヒントがあった。

中野善壽氏
東方文化支援財団代表理事 元寺田倉庫社長兼CEO
1944年東京生まれ。伊勢丹を経て鈴屋にて代表取締役専務に。パリ、ニューヨークに駐在し、海外出店を推進。その後、台湾に渡り、中国力覇集団百貨店部門代表、遠東集団董事長特別顧問、及び亜東百貨COO。2011年から寺田倉庫社長。19年に退任後は、東方文化支援財団の代表理事を務める

 東方文化支援財団をご存じだろうか。文字通り東アジアの文化事業を支援するための組織で、建築家の隈研吾氏や元三越伊勢丹HD社長の大西洋氏ら、そうそうたるメンバーが名を連ねる。

 その代表理事を務める人物が、中野善壽(よしひさ)氏だ。台湾の百貨店の代表や寺田倉庫社長などを歴任した経営のプロ。75歳にして台湾を拠点とし、シンガポールと日本を股にかけて今なお活動している。

 その経営手腕は異色そのものだ。台湾の力覇集団百貨店は「百貨」をやめて一点突破、寺田倉庫では主力事業を次々に売却。「余計なものはそぎ落とす」という徹底したミニマリストの考え方で変革を成し遂げてきた。

 私生活でも、その考えは貫かれている。モノへの執着はゼロで、家もクルマも持たず、飲酒も喫煙もしない。お金も生活に必要な分以外は、すべて寄付してきた。どんな生き方をして、極端なほどのミニマリストの考え方を身に付けてきたのか、今のコロナ禍に苦しむ人々や企業をどのように見ているのか。

アポなしで台湾総統府に行き、いきなり教授に

 中野氏が新卒で入社したのは伊勢丹。だが数年で先輩とけんかをして退職。次に入ったのは、日本で初めてのファッション専門店として60~80年代に名をはせた鈴屋だった。パリ、ニューヨークの新店舗に携わり、帰国後は日本初のファッションビル「青山ベルコモンズ」の立ち上げメンバーも経験した。

 ただ、このころから中野氏の気持ちには変化が出始めていた。アパレルは華やかな分だけ、沈んだ時の「谷」も激しい。「20~30代にかけてそれをすごく見たんですよね。特に小さいアパレルというのはそう。5人から始めたアパレルがあっという間に200人とかになるのに、気づいたら倒産しちゃってなくなっている。これの繰り返しだったんですよ」。何かを持つことの悲しさ、切なさ。これが中野氏に大きな影響を与えた。鈴屋では専務にまで上り詰めたが、「何となく居場所がなくなったから」という理由であっさりとやめてしまう。

 翌日には空港に行き、目に入ったシンガポール行きのチケットを購入。だがその飛行機が台北経由で、トランジットのうちに「ここでもいいや」とこれまた何となく入国。驚くのはまだ早い。空港を出たその足でアポなしのまま台湾総統府にふらりと入る。そして偶然居合わせた職員に「台湾はこれからこうあるべきだ」と講釈したところ、研修機関での教授という職を得ることになる。すべてが嘘のような本当の話だ。

 生徒は台湾企業のオーナーや企業から派遣された社員ばかり。その中の1人が、財閥系コングロマリット・中国力覇(Rebar)集団の社員だった。力覇グループはセメントやアルミサッシ、不動産の仲介業などを行う財閥。生徒として来ていたデパート部門・力覇百貨を担当していたオーナーの長女に懇願され、経営を引き受けることとなる。

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