ネスレ日本を代表するビジネスモデルとなった、コーヒーのオフィス向け定期宅配サービス「ネスカフェ アンバサダー」。この立ち上げをリードし、大成功に導いた敏腕マーケター・津田匡保氏が2019年2月に同社を退社した。津田氏が新たな舞台に選んだのは、5月7日に立ち上がったばかりのファンベースカンパニー。次なる挑戦とは?
ファンベースカンパニー ファンベースディレクター
お申し込みはこちらから!
今やネスカフェ アンバサダーの会員数は40万人を突破、17年10月からは栄養素入りの抹茶やミルク入りカプセルの定期購入サービス「ネスレ ウェルネス アンバサダー」も立ち上げるなど、「絶頂期」ともいえるタイミングでの突然の退社でした。
津田匡保氏(以下、津田) 私は1978年生まれなので、今年で40歳。節目の年を迎えてキャリアを振り返ったとき、これまで新卒からネスレ日本で多くの経験をさせてもらったことに感謝するとともに、そこで学んだことや、自分なりに培った大切な考え方をより多くの企業に広めていきたい、そう強く思うようになったのがきっかけです。また、40代はさらに新しいことに挑戦して自身の幅を広げていく10年にしたいとも思いました。
そこで18年末に会社に卒業の意思を伝えると、社内のいろんな方々が温かい声をかけて送り出してくれました。ある人は、「一部ではマーケターと言えば『P&Gマフィア』という風にもてはやされているけど、外で活躍してネスレ日本の名を広めてこい」とも言ってくれた(笑)。会社の度量の深さに涙が出ましたね。
昨年末の段階では、転職するか、起業するか、進路はまだ決めていませんでした。そんな中、私生活ではバンコクに住んでいた父が急死するという予期せぬ出来事があった。父は晩年、タイにわたって日本企業と現地企業をつなぐ仕事に従事していて、葬式には現地の人がたくさん訪れてくれた。アイデアマンであり、ユニークな人柄でたくさんの人をつないでいた父の凄さを改めて感じることができ、自分も得意とする企画とアイデアで、できるだけ多くの経営者の方の手伝いをしたい、そう思いを強くしました。
年明けにバンコクから帰国し、以前から交流のあったコミュニケーション・ディレクターの佐藤尚之(さとなお)さん、アジャイルメディア・ネットワークの徳力基彦さんと会食する機会があって、その場でネスレ日本からの卒業をカミングアウトしたんです。すると、ちょうど、さとなおさんが野村ホールディングス、アライドアーキテクツの3者で、さとなおさんが提唱する「ファンベース」を基盤としたマーケティング支援会社の立ち上げを発表したところだという。まさに私がネスカフェ アンバサダーでやってきたことはファンと共に新しい価値を生み出すこと、すなわちファンベースの取り組みなので、「あ、これだ!」と。あまりのタイミングの良さに、天国の父が出会わせてくれたような気もしました。
そんな経緯があったのですね。改めて振り返ってみると、ネスレ日本ではどのようなキャリアを歩んできましたか。
津田 2002年に京都大学農学部を卒業して、ネスレ日本に入社しました。最初は、岡山県で営業に従事し、その後、広島県にある中四国支社に異動して営業企画、プロモーション立案などを行っていました。計6年間の“下積み”時代ですね。
神戸のネスレ日本本社に戻って、09年からはマーケティングに携わるようになり、「ネスカフェ ゴールドブレンド」のブランドマーケティング業務や、1杯抽出型マシン「ネスカフェ ゴールドブレンド バリスタ」のテスト販売、10年からの全国展開を手掛けました。バリスタは初年度で約50万台を販売。それまでのコーヒーマシン市場が年間100万台規模でしたから、市場を塗り替える大ヒット商品になりました。
しかし、当時コーヒー事業部のトップだった高岡浩三さん(現・ネスレ日本社長)は、「こんなんで喜んでいたらダメだ。人口が減少する中で従来の家庭内消費の大幅な伸びは期待できないから『家庭外』へ出なければ」と。家庭向け販売の成功の余韻に浸る間もなく、「次」を模索する毎日でした。
そこで生まれたのが、専用カートリッジなどの定期購入を条件に、職場などにコーヒーマシンを無料で貸し出す「ネスカフェ アンバサダー」のビジネスモデルだったと。
津田 ビジネスモデルのコンセプトを固めていく中で、1つのヒントとなったのが、2011年に発生した東日本大震災での体験でした。当時、被災地に会社として物資を送りつつ、個人では仮設住宅向けに移動図書館のボランティアを行っていた知人と一緒にバリスタを持ち込んでコーヒーを配布していました。そんな中で、仮設住宅の管理人に話を聞くと、知らない人同士が集まっているだけに交流が生まれづらいという課題があったのですが、集会所にバリスタがあると、不思議と人が集まってくる。コーヒーを軸にコミュニティーが生まれたんです。
これは、コーヒーマシンを家庭向けに売ることばかり考えていた我々にとって、衝撃的な発見でした。バリスタには、手軽にコーヒーを飲めるという機能的価値だけではなく、人と人との交流が生まれるという情緒的価値があるんだと。家庭内から家庭外へと進出する大戦略は描けても、その出て行き方、コンセプトが定まらなかった中で、非常に重要な気づきになりました。ビジネスモデル自体に加えて、顧客のかかわり方やコンセプトを突き詰めることも成功のためにはとても重要。ネスカフェ アンバサダーの場合は「コミュニティーを豊かにする」、これがまさにコンセプトなんです。
このとき、日本で一番大きなコミュニティーはどこかと考えると、それは職場です。だから、ネスカフェ アンバサダーは職場をターゲットにして、ビジネスプランを組み立てた。12年6月から北海道限定でテスト展開、その年の暮れには早くも全国展開を始めました。
ネスカフェ アンバサダーは、今ではeコマースおよびサブスクリプション(定期購入)の成功例として語られることが多いですよね。
津田 それはありがたいのですが、eコマースやサブスクリプションというモデル自体はあくまで「手段」です。誰をどういう風に笑顔にしたいか、そこを明確にしながら、顧客と一緒にサービスをブラッシュアップしてきたことが、今につながっています。
下のスライドは、サービス開始から続けてきたサイクルをまとめたものです。ネスカフェ アンバサダーの仕事を始めるまで私は、テレビCMを打って市場シェアが1ポイント上がったとか、マスマーケティングばかりに傾注していて実際のユーザーと向き合うことはほとんどなかったのですが、ネスカフェ アンバサダーは少人数のファンからスタートし、そのニーズを傾聴しながら、ファンと一緒になってサービスを共創することに注力してきました。
例えば、「コーヒーが苦手」という声を受けて、当初はバリスタマシンだけのラインアップだったものにティー抽出マシン「ネスレ スペシャル.T」を追加したり、そもそもサブスクリプションの仕組みも、「毎回コーヒーを注文するのが面倒」という意見を取り入れて途中から導入したものです。他にも、注文頻度を選べるようにしたり、納品日をフレキシブルに変更できるようにしたり――。すべてユーザーと直接コミュニケーションを重ねる中で改善してきた。この積み重ねがあるから、ファンになった人が新たなファンを呼び、離脱も少ないという好循環が回るようになったんです。
さとなおさんが提唱する「ファンベース」とは、企業やブランドが大切にしている価値を支持してくれる生活者を「ファン」と位置付け、ファンをベース(土台、支持母体)に中長期的な売り上げや企業価値の向上に繋げていくという考え方。まさにネスカフェ アンバサダーでも同じことを実践してきたので、ファンベースカンパニー設立の話を聞いたとき、私の経験を生かせると直感できたんです。
世の中に「好き!」の連鎖をつくる
ファンベースカンパニーへの参画は、ある意味、“必然”だったのかもしれませんね。新会社は具体的にはどのような事業を行うのですか?
津田 現状、世の中にはサブスクの「形」だけ取り入れて満足していたり、あるいは自社サービスに機能的価値しかないと思い込んで情緒的価値の発見をおろそかにしていたりする企業が多いように感じています。そうした企業にファンベースの考え方を注入しながら、一緒に事業を育てていく役割を担いたい。
主な提供価値としては、①情緒的価値(ファンが愛するツボ)の発見と伸長 ②企業との伴走(ファンベース施策の実行) ③ファンベース施策とマスキャンペーンの調和の3つがあります。ファンベースは手法ではなく考え方なので、いろんなアプローチがあり得ますが、例えばファンミーティングを企画・運営するなど、ファン同士の会話にしっかり耳を傾け、本音を引き出す。そうすることで、自社サービスや製品のファンがどんな人たちなのか、情緒的価値がどこにあるのか、まず把握できるようにします。それをベースにファンとの継続的なかかわり方や施策をデザインしていく。必ずしも新規顧客を獲得するためのマスマーケティングなどを否定しているわけではなく、ちゃんとファンの声を傾聴してツボを分析し、企業の思い込みで押し付けずに共感を得られるような施策を続けるということです。
同時に、必要に応じて研修なども提供しながら、クライアント企業の従業員も巻き込んでいきます。経営者がファンを大事にしようと音頭を取っていても、社員がどこか自社サービスや製品を信じきれていないケースが多々あります。ネスカフェ アンバサダーでも最初はそうでした。しかし、社員にファンミーティングに参加してもらったり、その模様を撮影したムービーを共有したりするうちに、ファンの熱量が社内にも伝播(でんぱ)していきます。これがファンベースを強力に推進する原動力になります。
我々は短期プロジェクトをこなすコンサルティング会社でも、広告代理店でもなく、クライアント企業にファンベースが根付き、自走できるようになるまで手助けする「伴走者」です。対象となる業種に限りはありませんが、自治体や街づくり、スポーツ、ITサービスなど、ファンの育成が特に重要なジャンルがメーンになりそうです。
野村グループが有する経営層の豊富な顧客接点を生かしつつ、アライドアーキテクツの開発力をもってファンと密接にコミュニケーションできるITツールを開発することも視野に入れています。案件によっては、ファイナンスを組み合わせることもあるでしょう。もちろん、クライアント企業のファンに求められるならば、ネスカフェ アンバサダーで培ったeコマースやサブスクのノウハウも活用していきたい。
業種が多岐にわたり、ネスレにとどまるより確かに視野が広がりそうですね。
津田 私はファンベースディレクターという謎の肩書で、現場で汗をかく役割(笑)。いろんな企業や団体のビジネスにかかわるのが、非常に楽しみです。ファンベースカンパニーの事業を通じて各企業、ブランドに紐づくファンを増やしていった先には、それぞれのコミュニティー同士をつなげたり、行き来したりする仕組みもつくりたいと思っています。
今のように、ある製品やサービスを安いから買う、家にあるから仕方なく使うではなく、好きだから使うという「意思ある消費」を一人ひとりの生活者の中で数珠つなぎに増やしていきたい。ファンベースをあらゆる企業が実践することで社会全体の温度を上げ、「好き!」がもっと多い世の中にする――。これが達成できれば、古巣のネスレ日本への恩返しにもなるはず。そう考えています。
(写真/高山透)