マカロンをはじめとするお菓子だけでなく、パッケージやショップの造りもモダンでおしゃれなブランドとして高い評価を得ている「ピエール・エルメ・パリ」。意外にも最初の店はフランスではなく、日本のホテルニューオータニでした。
本連載は、「この人の『勘』や『感』の見方を知りたい!」と思った方にお会いし、仕事に「勘」や「感」は必要なのか、どのように磨けばいいのかについて、成功談も失敗談も含めて聞いていくものです。それも、難しい書き言葉ではなく、分かりやすい話し言葉で。読者の皆さんにとって、未来に向けたヒントになれば幸いです。
今回はピエール・エルメ・パリの日本代表を務めるリシャール・ルデュさんに登場いただきました。ピエール・エルメ・パリといえばスイーツ界の人気ブランドとして、押しも押されもせぬ地位を築いていることは触れるまでもありません。マカロンやチョコレートをはじめとするお菓子の数々のおいしさはもちろんのこと、パッケージやショップの造りがモダンでおしゃれ。ファッション性が高いブランドとして高い評価を得ています。
リシャールさんはピエール・エルメ・パリの日本上陸に携わり、一度、離れたものの再びカムバックしてこのブランドの成長を指揮してきました。今回はブランド誕生から今日まで、さらに昨年東京・丸の内に開いたばかりのカタカナの「ピエール・エルメ」誕生の裏側などについて、チャーミングなユーモアを交えながら語ってくれました。
川島 リシャールさんはもともとパティシエですが、どんな経緯からピエール・エルメ・パリの日本代表になられたのですか。
リシャール 私が生まれたのはフランスのパリとニースの間にあるクレモンフェランという町です。両親とも医者だったのですが、私は継ぎたくなかったのです。幼いころから家族でいろいろなところに旅行していたことも影響していたのでしょう。外国に住んで働きたいと思っていました。そして料理人になれば、世界中のホテルやレストランで働けるに違いないと、親に内緒で学校を辞め、14歳から地元のレストランで働くようになりました。1989年にまずは半年だけパティシエの基礎を学んだのです。その後、近くにあった三つ星レストラン「ピエール・ガニェール」で修行しました。そこが日本企業と契約を結ぶことになって、初めて日本を訪れたのが93年ごろでした。
川島 そのときの日本の印象はどうだったのですか?
リシャール フランスでの暮らしとの差が大きすぎて、正直言ってすごく戸惑いました。ちょっと考えてみてください。フランスの田舎町から突然東京に出てきたのです。レインボーブリッジに立つと、富士山があって、東京の港があって、新宿の高層ビル街が見える。未来の国が目の前にあるという感じですよ。
川島 ものすごいカルチャーショックですね。
リシャール そう。今ではフランスでも寿司やラーメンがポピュラーになったり、日本人のアーティストたちが知られるようになったりしていますが、当時はそうではありませんでした。そして96年、パティシエのピエール・エルメさんとともに「フォション」や「ラデュレ」の日本での展開を手掛けたのです。
そのフォションの時代にエルメさんと初めて出会いました。最初に交わした会話はすごく短かった。「一緒に仕事したいですか」と聞かれ、「はい」と答えたら、「オッケー、じゃあ来週から来てください」と、もう10秒くらいのことで驚きました(笑)。そして98年、「ピエール・エルメ・パリ」の最初の店を日本のホテルニューオータニに出しました。世界初のピエール・エルメ・パリの店作りに関わることができたのです。ただその後もどうしても日本になじめず、一度会社を辞めてしまいました。
川島 えっ、そうだったんですか。
リシャール 日本語をあまり話せなかったこともあり、フランスと日本の違いを理解できず、コミュニケーションで苦労し続け、このままではダメだと思ったのです。それで仕事を辞めて日本を離れ、バックパックを背負って南米に行きました。そしたら「日本で新しいプロジェクトが始まるので、もう一度チャレンジしてみませんか」とエルメさんに再び声をかけてもらい、それならということで日本に戻ることにしたのです。ただ、前の3年間を振り返り、自分のどこが間違っていたのかを見直して考え方を変えました。
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