2018年10月1日にリニューアルオープンした「とらや 赤坂店」は木をふんだんに使った低層の建物だが、実は最初は10階建ての高層ビルを建てる予定だったという。大胆な変更を決断した裏側とは?

2018年10月1日にリニューアルオープンした「とらや赤坂店」は木をふんだんに使った低層の建物
2018年10月1日にリニューアルオープンした「とらや赤坂店」は木をふんだんに使った低層の建物

 本連載は、「この人の『勘』や『感』の見方を知りたい!」と思った方にお会いし、仕事に「勘」や「感」は必要なのか、そして、どのように磨けばいいのかについて、成功談も失敗談も含めて聞いていくものです。それも、難しい書き言葉ではなく、分かりやすい話し言葉で。読者の皆さんにとって、未来に向けたヒントになれば幸いです。

 今回は、虎屋の社長である黒川光博さんに登場いただきました。500年近い歴史を持ち、和菓子の老舗として名を馳せていることは、改めてここで言うまでもありません。

 老舗ののれんに寄りかかることなく、新しい商品や店作りに積極的に取り組んできました。最近では、銀座のソニーパークの中の「トラヤカフェ あんスタンド」や、東京・青山にあるItochu Gardenの中の「TORAYA AOYAMA」など、新しい試みを盛り込んだ業態を世に送り出しています。

 そして2018年10月1日、旗艦店といえる赤坂店がリニューアルオープンしました。15年秋から一時休業して建て替えていた赤坂店が果たしてどんな顔つきで登場するのか、ワクワクしながら訪れ、木をふんだんに使った佇まいに心動きました。

 古さと新しさ、クラシックとモダン、伝統と現代、一見すると対極にあるかに見えるものを、同居させた美しい佇まいと居心地の良さがある。しかもそこに、“らしさ”が存在し続けている。黒川社長が率いる虎屋という企業の在り方、そして「勘」や「感」の話を聞いてみました。

黒川光博社長は虎屋の17代目。「大切なのは、過去でも未来でもなく、今、この時」を持論とする経営者。学習院大学を卒業して虎屋に入社、1991年に父親から会社を引き継ぐ。全国和菓子協会名誉会長、一般社団法人日本専門店協会顧問
黒川光博社長は虎屋の17代目。「大切なのは、過去でも未来でもなく、今、この時」を持論とする経営者。学習院大学を卒業して虎屋に入社、1991年に父親から会社を引き継ぐ。全国和菓子協会名誉会長、一般社団法人日本専門店協会顧問

社長の役割は大きなことをはっきりさせること

川島 「とらや 赤坂店」のリニューアルオープン、おめでとうございます。重厚感と格式のある「とらや」が、軽やかな佇まいに変身してびっくりしました。

黒川 ありがとうございます。オープンして3日、私も毎日店の様子を見に行っていますが、なかなか良いスタートを切れたと思います。

川島 現場の社員ががんばってやっていて、何も問題が起きていないということですから、めでたいことです。

黒川 ちょっと寂しいくらいです。社長の役割で言えば、時々出て行って、大きなことだけはっきりさせておいて、後はもう、やってもらえばいいと思っているのです。

川島 そういう社長って、かっこいいです。

黒川 目指してはいるのですが、なかなかそういかないのです。例えば「値札がちょっと曲がっているじゃないか」とか「床にごみが落ちていないか」とか、全部見えてしまうのです。そうすると、言わずにはいられなくなってしまう(笑)。言ってしまってから、社長が出て行っていろいろ言うのは良くないと反省しています。

川島 なるほど、社長とは大変なお役目です。ところで、リニューアルした赤坂店は半世紀ぶりの建て替えということですが、いつ頃から計画を立てていたのですか。

黒川 東日本大震災の前から「そろそろ50年たつし、建て替えようか」という話は出ていたのですが、震災によって耐震の問題がより現実的になり、一気に進めたのです。東京五輪が来るということで、建て替えようにも、建設がらみの高騰や人手不足という問題も出てきて少し遅れましたが、ようやく開けることができました。

途中で低層に切り替えた理由

川島 今回お目見えしたのは地上4階建てで木造りの建物ですが、当初はもっと背の高いビルの構想もあったとか。

黒川 そうなのです。最初は事業計画として、法律の許容範囲いっぱいの10階で計画していました。いわゆる普通のビルと一緒で、一部を店舗と自分たちのオフィスに当て、余裕があれば、どなたかに借りていただけばいいという考えだったのです。ところが、副社長やビル建設に携わる社員たちから、「低層階にしたらいいのではないか」という提案が出てきたのです。すでに計画はかなり進んでいましたので、その話を聞かされたときは、「唐突に何の話だ」という思いを抱きました。

川島 低層にするという意見を最終的に受け入れた理由はどんなところにあったのですか。

黒川 歴史を振り返ると、赤坂店は過去に何度か建て替えているのですが、それぞれの時代背景とつながっています。祖父の時代に建て替えたのは1932年で、戦時色が強まっていったころでした。祖父は皇室を大変崇拝申し上げており、最後まで自分がお守りするのだという思いがあって、お城のような建物にしたという話を聞きました。

 また、半世紀ほど前の1964年に建て替えたとき、私は大学生だったのですが、まさに東京五輪の年で、日本が高度経済成長期の時代です。首都高ができてクルマがすごいスピードで走るようになり、新幹線の登場で東京から大阪までの移動時間が半分くらいになるなど、さまざまな変革が次々と現実化していました。大きな趨勢として、大きく、豪華、速くといった方向での可能性がどんどん広がっていき、世の中が「これから」という明るさや希望に満ちていた。そういう時代にあって、ああいう建物を建てた意味があったのだと思います。

川島 どっしりとした重厚感とモダンな風情が同居していて、おっしゃるように、右肩上がりの時代があって、人々が描いていた未来図的な要素がどこか漂っていたように感じます。

黒川 そう思うと、時代によって店に求められているものは変わっていくということに改めて思いが及び、今回のリニューアルで低層にした意味もあると思えてきました。

人間の心に根差したものが求められていく時代

黒川 これからの時代は何が求められていくのだろうと考えたときに、大きいとか、豪華とか、そういう時代ではなくなっていると思いました。もう少し人間の心に根差したものが改めて求められているのではないかと。自然に触れる、ほっとする、温かさを感じる、ゆっくりできる、皆さんが菓子屋に求めていらっしゃることはそういうことではないかと考えたのです。それには高層ビルより低層の建物のほうがフィットすると感じましたし、建て替える目的がはっきりするという結論に行き着きました。

川島 すでに計画は進んでいたわけで、それをストップして方向転換するのは、企業としてかなり難しいことです。

黒川 その通りです。ただ、この話が持ち上がる少し前のこと、新国立競技場のザハ・ハディド氏のプランが問題になったとき、政府の主張は「1回決めたから変えられない」というものだったのですが、私は「1回決めたことでも、変更したほうが良ければ変えていいのではないか。決めたから変えられないというのはおかしい」と思い、周囲に話していたのです。その直後に、自社の中で似たような状況が起きたということで、これを否定したら、自分の言ったことと矛盾して立場がないなと(笑)。

川島 社内外への対処や反応はどうだったのですか。

黒川 設計をお願いした内藤廣先生をはじめ、建設会社や銀行の方に、言いにくいと思いながら話をしてみたら、みなさん本当に気持ち良く「そういうこともありますよね」と言ってくださったのです。でも、さすがに社内の役員会では「え?」という反応がありました(笑)。それはそうですよ。一度、社長が決めたことを変えるわけですから。そこから話し合って、低層のビルにしようとプランが固まりました。

川島 低層に変える決断の裏には、時代にフィットしているかどうかという黒川さんの「勘」や「感」が働いていたこと、よく分かりました。次回はその続きを伺いたいと思います。

(写真/鈴木愛子)

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