予防医学にマーケティングの手法を取り入れたスタートアップがある。キャンサースキャン(東京・品川)だ。率いるのは、著名マーケターを多数輩出してきたP&G(プロクター・アンド・ギャンブル)の出身者。全国各地の自治体と連携し、がん検診や特定健診の受診率を引き上げる立役者として頭角を現している。
ちょっとした表現の工夫が、歴然とした差を生んだ。
A「乳がん検診のご案内 マンモグラフィによる検診を受けましょう」
B「約1万円の補助が受けられますので自己負担額1000円で受診して頂けます」
同じ乳がん検診を呼び掛けるチラシでも、前者(A)は1500人に送付して1人しか受診しなかったのに対し、後者(B)では送付者1489人に対し131人が受診した。東京都杉並区が2009年度に実施したABテストの結果である。過去5年間に乳がん検診を受診していない住民を無作為に2つのグループに分け、チラシの文面やレイアウトを変えて出し分けたところ、受診率が飛躍的に向上したのだ。
この結果は、たまたまではない。「1000円で受診できると言われても、安かろう、悪かろうと思われがちだが、『1万1000円が1000円になる』ならよさそうに感じる。これは、マーケティングでいうバリュー(価値)のリフレーミングという手法です」
そう語るのは、このABテストを企画したキャンサースキャンの福吉潤社長。P&Gで洗剤の「アリエール」や「ジョイ」のマーケティングを担当し、08年に創業した。
「『検診に来てね』というお知らせを送っても、多くの人は封筒すら開けない。自治体のDM(ダイレクトメッセージ)も、マーケティングの媒体じゃないですか。文面を変えてみるだけでも、未受診者の背中を押すことはできると思った」(福吉氏)
こうしたアプローチをナッジ(nudge)という。直訳すると「ひじで軽く突く」。行動経済学や行動科学の分野で、人々が自発的に望ましい行動を選択するよう促す仕掛けや手法を指し、17年にはノーベル経済学賞を受賞した。福吉氏はこのナッジ理論を予防医療に応用し、行動変容を促すためのノウハウを、ABテストなどを通じて積み上げていった。今や全国の3割に当たる約550の自治体から受診率向上事業を受託している。
人の行動を変えるノウハウは医学にはない
構想の発端は06年。当時、ハーバードビジネススクールに留学していた福吉氏は、予防医学研究者の石川善樹氏と出会い、起業へ突き進むことを決意した。
「人が病気にならないようにするためには、まずは行動を変えなくてはいけない。しかし、人の行動を変えさせるノウハウは、医学の中にはない」という石川氏の言葉に、福吉氏ははっとした。
「検診を早く受けてがんの早期発見、早期治療につなげる。検診というサービスそのものが、価値あるものだと思わせるにはどうすればいいか。人の気持ちや行動をつくるのは、マーケティングの役割だと思った」
福吉氏がP&G時代に担当した洗剤は「消費財の中で最も差別化が難しいとされる商品だった。それでも消費者のインサイトをとらえ、新しいメッセージを発信すれば物が売れていく。人の行動が変わっていくことがすごく不思議であり、面白かった。マーケティングが進んでいない領域は、医療の中にたくさんある。届くべき医療が届くべき人に届いていない状況を改善したかった」。
キャンサースキャンという社名の通り、まずはがん検診の受診率向上を目指した。「例えば、大腸がんは早期発見で99%治る一方、進行して見つかると生存率は極端に下がる。自覚症状がない人に検査を受けてもらうことが、がん撲滅への第一歩になる」(福吉氏)。
なぜ、人はがん検診を受診しないのか。そもそも、そこから研究は始まった。福吉氏が着目したのは、内閣府の「がん対策に関する世論調査」である。14年の調査結果は「受ける時間がないから」「費用がかかり経済的にも負担になるから」「がんであると分かるのが怖いから」と続いていた。
しかし「マーケターの勘」で、福吉氏は違和感を覚えた。がん検診は決して高額ではないからだ。「自治体の補助を使うと500円、1000円で受けられる。洗剤の調査でも『なぜアリエールを買わないんですか』と聞くと、『高いから』とよく返ってきた。言い訳をするときに、消費者はこういう回答をする傾向がある」。
がん対策に関する世論調査は3年に1回実施している。そこで過去に遡ると、07年の調査では全く違う回答がトップに来ていた。「たまたま受けていない」である。 「(検診を)受けたくないわけじゃないが、ちょっと後回しになっている。たぶんこっちのほうが実態に近い」と当たりをつけた。
「P&Gマフィア」に学んだアプローチ
福吉氏自身、P&G時代は「今でいう『P&Gマフィア』の先輩方から、かなり厳しく育てられた」と振り返る。マフィアたちから教わったのは「買いに行く理由がないときと、買いに行かない理由があるときは、行動が起きてないという現象では一緒だが、マーケティングのチャレンジは全然違う」という経験則だった。
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