消費増税も、新型コロナウイルスも物ともせず、右肩成長を続けるワークマン。新業態「ワークマンプラス」に始まる大躍進は決して偶然ではない。これまでの積み重ねが花開いた結果だった。2020年6月29日に発売された、ワークマン初のビジネス書「ワークマンは商品を変えずに売り方を変えただけでなぜ2倍売れたのか」(日経BP)から「はじめに」の前半部分を全文公開する(WEB用に一部再構成しました)。
「企業には歴史がある。歴史にはスタートがある。往々にして、企業の個性はどういうスタートを切ったかによって作られる」
1989年。昭和の終わりに、こんな書き出しで始まる一片の文書が編まれた。タイトルは「ワークマンものがたり」。作業服専門店として知られるワークマンが100店舗達成を記念し、この先「500店舗、1000店舗と発展して行ったときにも創業時の精神を振り返るひとつの記録」となるようにまとめたという、門外不出の社内報である。
当時から30年が過ぎた。平成が終わり、令和が幕を開けた。ワークマンの国内店舗数は500どころか、2020年5月末で869まで拡大。あのユニクロを抜き去り、1000店舗体制も視野に入った。店舗数だけではない。売上高を見ると、その急成長ぶりは抜きんでている。強烈な逆風が吹いていたにもかかわらずである。
19年10月、消費税率が8%から10%に引き上げられた。ワークマンは真っ先に「価格据え置き」を宣言し、実質値下げに動いた。既存店売上高は20年3月まで17カ月連続で前年比2桁成長を継続。20年3月期のチェーン全店売上高は1220億円と、創業以来、初めて1000億円の大台に乗った。新型コロナウイルスが列島を直撃し、アパレル企業が総崩れとなる中、ワークマンだけは順調に収益を積み上げている。なぜ、ワークマンは強いのか。それは、ファンの期待を決して裏切らない経営にある。
「行こうみんなでワークマン」の時代
ワークマンと聞いて、何を思い浮かべるだろうか。歌手・吉幾三を起用したテレビCMを挙げる人は、意外に多いかもしれない。家族のために働く男(=ワークマン)の日常を、情感たっぷりに歌い上げたCMソングは、世のお父さんの心を打った。
雨にも負けず、風にも負けず、来る日も来る日も現場に出続ける職人にとって、安くて丈夫なワークマンの作業服は、人生のよきパートナーであり続けた。そのワークマンが、装いを新たにしたのは2年前だった。
18年9月5日。東京都立川市のショッピングモール「ららぽーと立川立飛」に、新業態「ワークマンプラス」を出店した。それは、日本のアパレル史上に残る革命だった。作業服専門店が一夜にして、アウトドアショップへと変貌を遂げたのだから。マネキンやポップを多用した店構えは「本当にあのワークマンなのか」と目を疑うほど洗練されていた。これまでワークマンに見向きもしなかった一般客が、初めてワークマンという存在を「発見」した瞬間だった。
ここから、ワークマンは怒濤(どとう)の進撃を始める。店先には連日、入店制限をかけるほどの行列が延び、初年度売り上げ目標をわずか3カ月で達成した。それだけではない。ワークマンプラスが広告塔となり、既存のワークマンにも新規客がなだれ込んだ。19年8月には既存店売上高が前年比154.7%と驚異的な伸びを刻み、その後も勢いは衰えない。「歴史が変わった」。古参社員が、思わずそううなるほどのうねりが列島中を駆け抜けた。
ワークマンプラスを見たとき、誰もがこう思っただろう。ワークマンが、カジュアルウエアの新ブランドを開発した。ワークマンプラスという全く新しい店をオープンしたのだと。実際に、あまりのイメチェンぶりに、昔からのファンは衝撃を受けた。「悲報!俺たちのワークマンはどこに行った」というつぶやきがネット上に飛び交った。しかし、そうではなかった。並んでいる商品は、すべて既存のワークマンで扱っているアイテムだった。
そう、これは壮大な実験だったのだ。ワークマンプラスは、ワークマンが扱う1700アイテムに及ぶ膨大な商品群から、アウトドアウエアやスポーツウエア、レインスーツなど、一般受けするだろうと見た320アイテムを切り出したにすぎない。そのうえで、マネキンや什器を入れ、照明や内外装、陳列方法を思い切って変えた。つまり、ワークマンとワークマンプラスは同じ商品を扱う“同一店”だったのだ。
しかし、それだけで売り上げは爆発した。ワークマンプラスの売上高は、既存店平均の2倍に急伸。まさに商品を変えずに売り方を変えただけで2倍売れたのだ。男性の職人中心だった客層は一変し、今やショッピングモール内のワークマンプラスは、女性客が半数を超える。「ワークマン女子」という言葉まで生まれ、SNSでは「#ワークマン」をつけたつぶやきが日々増殖している。
19年には、モーニング娘。が全身ワークマンコーデに変身し、新曲「人生Blues」のミュージックビデオを撮影した。9代目リーダーの譜久村聖は自身のブログでこうつづった。「ワークマン=作業着は、もう違うみたいですよ!」。おじさんから、アイドル、ファミリーまで、かつて吉幾三が歌い上げたように「行こうみんなでワークマン」という世界が、本当に押し寄せたのだ。
新型コロナウイルスが猛威を振るい、見えない脅威に世界は翻弄されている。不透明な時代だからこそ、我々が今、ワークマンから学ぶことは多い。なぜなら、ワークマンは、このワークマンプラス誕生のはるか前から、時代を先読みし、進化を重ねてきたからだ。
16坪、14坪で実験を重ね、3号店で「標準化」
ワークマンは1980年9月30日、群馬県伊勢崎市昭和町に「職人の店・ワークマン」として産声を上げた。店名の通り、ザ・作業服の専門店である。1号店は、わずか16坪(53平方メートル)の極小店舗だった。商品が思うように集まらず、作業ズボンに、肌着、靴、軍手、軍足で厚みをつけた程度。作業服専門店をうたうにはかなり不十分で、流通関係者から、品ぞろえの貧弱ぶりを、よくからかわれたという。いざ仕入れを要請しても、「そのような商品はない」と門前払いを受けることはしょっちゅうだった。
その半年後、群馬県大間々町(現在のみどり市)に開業した2号店は、1号店以上に極小だった。普通の住宅を改装した14坪(46平方メートル)の売り場。節約、節約でスタートし、品ぞろえには悪戦苦闘したものの、幸い売れ行きだけは好調だった。82年4月、ワークマンは満を持して埼玉県深谷市に40坪(132平方メートル)の店を出し、埼玉に進出する。驚くべきは、この3号店から100店舗チェーンになることを見越し、店のサイズや棚割りまでこと細かくマニュアル化する「店舗の標準化」に踏み切っていたのだ。
「1、2号店とも非常にいい業績を上げていた。しかし、1号店では業績はともかくとしてまだ商品管理などのノウハウがつかめず、先が読み切れないところがあった。2号店をオープンさせ、1号店で学んだものを実施してみてうまく軌道に乗った。これでいけるな、という自信がついた。3号店まで、時間がかかったのは、標準化するために準備を進めていたからだ」
ワークマンの創業者である土屋嘉雄氏(2019年9月まで会長を歴任)は「ワークマンものがたり」の中で、当時をこう振り返っている。つまり、このときから、店を出すたびに、実験を重ねていた。ワークマンプラスと同じ手法を、当時から実践していたのだ。
1、2号店は経営委託方式で出店し、3号店で今に続くフランチャイズ(FC)システムを導入した。米国の流通制度を視察し、FCシステムこそが今後の小売業界の主流になると読んだからだ。
「小売業は地域密着が大原則。したがって、地域のことを最もよく知っている地元の人が運営していくのが、一番いい。地元の人が持つ地域密着のノウハウと、ワークマンの持つ経営ノウハウが一体となるシステムが、FCシステム。小売業の理想的なシステムといっても過言ではない」(土屋氏)
現在、ワークマンの店舗の95%以上はFCで成り立っている。その礎は40年近く前に完成していたことになる。