カジノを含む統合型リゾート(IR)誘致で改めて浮き彫りになった問題がある。ギャンブル依存症だ。対策のキーテクノロジーは顔認証。このほど日本中央競馬会(JRA)は実証実験をした。ただそれを知る人は少ない。積極的に公表してないからだ。顔認証という優れた技術の微妙な“立ち位置”が表れている。
場所は、東京都府中市にある東京競馬場の入り口ゲート付近。そこに向かって数分おきに、腕章をした集団が通り過ぎていく。マスクをしている人、サングラスをかけている人、帽子をかぶった人もいる。意図的に早足でゲートを通り過ぎる人もいた──。
東京競馬場とウインズ銀座、1カ月間の実証実験
これは、顔認証システムを使ったギャンブル依存症対策の実証実験の一コマだ。JRAが10月12日から11月17日まで実施した。その様子を撮影したのが下の写真である。
同じ時期、東京都中央区にある場外馬券売り場のウインズ銀座でも実証実験が行われた。あえて悪条件にした顔について、どの程度の精度で識別できるかを3社のシステムで実験したのである。NTTデータ、富士通、パナソニックシステムソリューションズジャパン(東京・中央)の3社だ。
あらかじめ登録した人を画像認識技術で本人確認できるか。また、20歳未満の人を判別できるか。この2点を確認した。画像認識で使った技術はディープラーニングである。
もちろん実験の現場では、目につく場所へ大きな張り紙がされていた。ギャンブル依存症対策のための実証実験を実施中、という張り紙だ。来場者に対しては、カメラ撮影の目的をきちんと提示した。しかしJRAは、この実験の存在を積極的に公表してはいない。
聞けば、確かに難しい立場だ。JRAが手掛ける中央競馬、そのほか地方競馬まで含めた競馬全体でみると売り上げは約3兆6000億円という巨大産業だ。公営ギャンブルの中でも群を抜いて規模が大きい。
レース会場へ行っていることを家族に知られたくない人もいるかもしれない。だからこそ、「何かJRAが、カメラを使った顔認証でおかしなことをしようとしている」との間違ったうわさでも広がろうものなら、ギャンブル対策に顔認証という優れた技術が使えなくなる。そうした事態を最も避けたい組織の1つがJRAだ。
すべては3年前から始まった
今から3年前の2016年12月。カジノを含むIR整備推進法が成立した。これによって日本でカジノが解禁となる。ただし前提条件があった。付帯決議として競馬やパチンコなどへの依存症対策を施すことである。それを受けて2019年4月19日に閣議決定された「ギャンブル等依存症対策推進基本計画」にはこう記されている。
「本人・家族申告によるアクセス制限の強化及び個人認証システムの活用に向けた検討」として、「競馬主催者等は、数万人という来場者の入退場時(中略)個人認証のための支援ツールとして、平成 31年度中に顔認証システムの研究を開始し、3年を目途とした研究を踏まえ、その導入の可能性を検討する」
これを実際の形にしたのが先の実証実験だ。ギャンブル依存かもしれない本人あるいは家族がJRAに申告をして、その顔画像を登録。その人が来場したことをディープラーニングを使った顔認証システムで自動検知して、警備の人が「あなた、登録されていますよね」と声をかけ注意を促すというものだ。
頻繁に来場する人を、勝手に自動で画像認識して「あなた昨日も来てたでしょう。ギャンブル依存症の疑いがありますよ」と警備の人から告げられるといった代物では一切ない。これら、誤った情報が流布されることをJRAは懸念し、慎重になっている。
富士通の落札額は983万円
実験参加社は一般競争入札で決められた。入札金額からは3社の自信と“鼻息”の荒さが伝わってくる。
NTTデータが1491万円、パナソニック子会社が1155万円、富士通が983万円──。
この一般競争入札は、価格点100点に対して評価点300点の合計400点満点で採点する総合評価落札方式で実施された。入札価格が低ければその分価格点は高くなり、企画提案が優れていればその分評価点が高くなる。
入札の予定価格は1500万円だったので、富士通が提示した金額はその3分の2程度でしかない。それだけ落札したかったのだろう。
これはあくまで実証実験だが、もし全国の競馬場に顔認証システムが導入されることになれば、そのマーケットは大きい。JRAには馬券売り場として競馬場のほか、場外のウインズやJ-PLACEなど全国で103カ所がある。富士通は現在、AI(人工知能)を使ったシステムの社会実装に極めて積極的な姿勢を見せており、その一端がJRAの入札にも表れたのだろう。
強気のNTTデータ
逆に、強気の価格で応札したのがNTTデータだ。AI開発のフューチャースタンダード(東京・文京)と組んでシステムを構成した。「提案金額こそ高いが、カメラ単体の価格は安いものでも対応可能なシステムにしてあり、省スペースが特徴だ。特定のハードメーカーに依存しないことも強みとした」(NTTデータ)。強気の背景にはこうした自信もあるようだ。
両者の中間の金額を提示したのがパナソニック子会社。ディープラーニング顔認証システム「FacePRO」を基本とした構成だ。同社は、顔認証の精度向上ばかりに注力せず、業務用カメラ国内シェア1位の実績を背景に撮影技術に自信があり、また家電感覚で使い勝手がいいシステムをウリにする。
JRA関係者によれば、やはり顔認証の精度そのものが高い低いというよりも、今回の入札ではシステム全体の使いやすさを重視したようだ。ギャンブル依存症の人が来場したとき、それを無線で警備員に伝えて、警備員が当該人物へ声がけをして購入を思いとどまってもらう。そんな仕組みが考えられ、こうしたトータルの使い勝手をJRAは重視したようだ。
ボートレースも乗り出した
JRAの実証実験から遅れること約1カ月。競艇も動き出した。ただこちらはニュースリリースまで出して、むしろ積極的にアピールしている。
公営ギャンブルの雄ともいえる競馬が実証実験をやっているわけで、その結果を見ながら、3年期限のギリギリで競艇も実験をして、“アリバイ”づくりで済ませてしまう。そんなこともできなくもない。ただ対外的にも積極的な姿勢を見せておかないといけない事情が競艇にはあった。より根本的なギャンブル依存症対策を求められると、競艇の基本戦略が揺らいでしまうのだ。
ギャンブル等依存症対策推進基本計画の競艇向け文言は、JRA向けとは微妙に異なっている。
「ICT技術の活用による、本人・家族申告によるアクセス制限の強化」として、「平成 31年度から、対象者を特定する技術の先進事例を参考としつつ、ICT 技術を活用した入場管理方法についての研究を開始し、3年を目途とした研究を踏まえ、その導入の可能性を検討する」
JRA向けでは「顔認証システムの研究を開始し」という文言だったが、競艇向けでは「ICT技術を活用した入場管理方法についての研究を開始し」となっている。顔認証システムと書かれずに、ICT技術とかなり幅広い文言になっているだけに競艇界は焦った。
競艇界が恐れる事態
恐れるのは、政府が積極的な普及を目指す「マイナンバーカード」を使った入場制限だ。ICT技術を活用した入場管理の1つの手法といえる。
競艇は今、「ボートレースパーク化」事業を推進している。ボートレース場を公園のようにして、気軽に家族連れで来場してもらう構想だ。マイナンバーカードをかざして入場するようになれば、年齢制限という問題も出てくるし、そもそもパークという印象からはほど遠い存在になってしまう。パーク化構想そのものを見直す必要が生じてしまうわけだ。だから、顔認証の活用を積極的にアピールする。
ちなみに、このマイナンバーカードによる入場制限。IRのカジノで適用される。もともとIRが発端でギャンブル依存症対策として顔認証システムの導入が浮上したのに、“本家”のIRはさらに重厚なマイナンバーカードが前提となってしまった。余波として既存の公営ギャンブルが顔認証を使わされるという妙な構図か。
競艇の全国組織である全国モーターボート競走施行者協議会は、12月27日まで、愛知県常滑市にある常滑競走場と同高浜市の場外発売場のボートレースチケットショップ高浜で実証実験をやっている。実験で確認したいポイントはJRAと同じだ。違うのは来場者を捉えるカメラの設置方法だ。
JRAは天井に取り付けたのに対して、競艇は天井に加えてデジタルサイネージのところにも設置した。協議会の総務部参事の川津大輔氏は言う。「レースの予想新聞を見ながら入場する人もけっこういるから、その場合はうつむきがち。だから低い位置から捉えた方が良いのではと考えた」。
きっかけはNTT東日本の飛び込み営業
もう1つ異なる点がある。システム提供企業の見つけ方だ。この実証実験ではNTT東日本がシステムを担当している。導入のきっかけはNTT東日本からの飛び込み営業だった。
かねてNTT東日本は、「地域とともに歩むICTソリューション企業」を標榜している。同社の第三部門IoTサービス推進担当課長の白神大志氏らは、顧客であるボートレースの場外発売所「ボートピア」担当者からこう言われた。
「ギャンブル依存症への対策をしないといけないのです」
対策の窓口が協議会である旨も聞き、打診をしてみた。提案を受けた協議会サイドには渡りに船だ。NTT東日本の提案を受け入れて、まずは実証実験をしてみることに。今後、全国など本格展開するならその段階でまた別のメーカーも含めて検討すればいい。そう考えた。
JRAと競艇は実証実験の結果について、早ければ2020年春に、ギャンブル等依存症対策推進本部(本部長:菅義偉官房長官)に設けたギャンブル等依存症対策推進関係者会議に報告する。恐らくJRAと競艇の結果をにらみながら、競輪とオートレースという公営ギャンブルの主催者、そして最も大きなマーケットを抱えるパチンコ事業者も実験の検討を進めることになるだろう。
顔認証システムはギャンブル依存症対策の秘密兵器となるのか。利便性とプライバシーの両輪をうまく回せるかの試金石にもなるだろう。