「見つけたぞ!」。誰かの声が米国のワシントン・スクエア・パーク内にこだました。その声を聞いた1人が、その方向に向かって走り始める。つられるように、公園内にいた人々が一斉に走り出す。皆、一様にスマートフォンの画面を見ながら走っている。目的の場所に達すると、夢中でスマホを操作し始めた。彼らの目的はスポーツブランド「NIKE」の限定スニーカーを購入することだった。

参加者が利用するのは米ナイキのECアプリ「SNKRS(スニーカーズ)」だ。ナイキは同アプリのAR(拡張現実)機能を使って、宝探しをするように公園内に隠されたスニーカーを探し当てる企画を実施した。企画内容は日本でも人気のゲームアプリ「ポケモンGO」を想像すると理解しやすい。SNKRSの企画はポケモンを探すようにアプリを使い、公園内でスニーカーを見つけることで購入の権利を得られるもの。スニーカーを見つけ出した参加者は、その場でアプリ上で商品を購入した。
SNKRSほど購入のハードルが高いECは珍しい。通常、ECサイトはなるべく買いやすく作るのが定石だ。多くのECサイト事業者はサイトの訪問者をなるべく逃さずに購入に結びつけるため、使いやすいサイトデザインの追求や、機能開発に心血を注いでいることだろう。ところがナイキのSNKRSは真逆の戦略をとる。
なぜか。ナイキSNKRS APPジェネラルマネージャーのロン・ファリス氏は、ブランドの熱狂的なファンを生み出すためには3つのポイントが必要だという。1つ目は魅力的な商品、次にその商品の魅力を伝えるストーリー、そして最後がデジタルを通じた体験だ。「今の時代のマーケティングは商品だけでは不十分。感情的に引き込めるストーリーもなければ消費者の強い関心を引くことは難しい。だからこそ、商品をどうやって手に入れたのかという体験が商品と同じぐらい大切なのだ」(ファリス氏)。
ナイキというブランド力、そこに一握りの利用者だけが購入できるという希少性、手に入れる過程で味わえるデジタルを活用した新しい体験を掛け合わせることで所有意欲に火を付ける。それによってナイキファンを熱狂の渦に巻き込んでいる。わずか数分の間に、万単位のスニーカーが売れることもあるという。
熱狂を生み出す3つのポイント

SNKRSは一部の限られた店舗でしか販売しないスニーカーの限定品だけを取り扱うナイキのEC事業の1つ。ECサイトとアプリの両方で利用できる。日本では2018年3月からアプリ版の提供も始めた。冒頭で紹介したARを活用した企画は特例で、基本的には一覧から商品を選んで購入する一般的なECサイトとして利用できる。
ただし、限定品を中心に取り扱うため発売と同時に完売してしまうことも少なくない。目当ての商品を購入するには、事前に商品の販売スケジュールを把握しなければならない。発売日の前日に予告されることも少なくないため、ナイキのファンは常にSNKRSの更新情報を気にかけている。国内では発売日の午前9時に販売を開始することが多い。利用者はそれを理解しているため、販売直前から待ち構えており、発売と同時に争奪戦が始まる。
さらなる限定品の場合には、ナイキ側で発売に合わせた企画を実施して特別感を演出する。「若年層は興味がすぐに移り変わる。6秒しか集中力が持たないともいわれる。なんでも手に入る。いつでも買える。そんな時代だからこそ、瞬間的な驚きを与え続けなければすぐに離れてしまう」(ファリス氏)からだ。
利用者に驚きを与えるためにナイキは新たな機能を開発し続けている。冒頭のワシントン・スクエア・パークで実施したARの企画もその1つ。「SNKRS Stash」と呼ばれる機能で実現した。これはARとGPS(全地球測位システム)を組み合わせて、リアルの世界でスニーカーを探して購入できる企画を実現するもの。ニューヨークを拠点にするレストラン「Momofuku」とコラボーレーションしたスニーカーは、レストランのメニューをアプリのカメラ機能で見るとARで画面上にスニーカーが登場して購入できた。

ただし、こうした企画に参加するには実際の場所に行く必要があり、地方在住者などは参加できない点が課題だった。そこで、ナイキは地方在住者も参加者と一緒に楽しめる機能を開発している。「SNKRS Stash Squad」と呼ばれる機能で、企画の実施中に参加者をアプリ上で探して、その参加者のフォロワーになる。フォローした参加者が商品の購入権を得たら、フォロワーにも購入権が付与される。今後はこの新しい機能を活用した企画も実施する。
SNSでの拡散でアクセス数が17倍
利用者に驚きを与えることは、SNSを通じた情報のシェアの促進につながり、さらなる売り上げ増加にも結びつく。例えば、1997年に発売されたバスケットシューズの「フォームポジット ワン」の復刻版の発売に合わせて実施した企画は、SNSを通じた情報の波及が想像を超える成果につながった。
同モデルは発売当時、バスケットボール選手のアンファニー・ハーダウェイ氏が着用して試合に臨もうとしたものの、青を基調としたデザインがユニフォームの規定に反していたため、一部を黒く塗り潰して着用したという逸話がある。このストーリーに目を付け、スマホのタッチパネルを使い、商品写真を指で触ってハーダウェイ氏のように黒く塗り潰すことで購入ページに遷移できる企画をSNKRSで実施した。ただし事前の予告は一切なしだ。偶然、その企画に気付いた人だけが購入できた。
企画の開始後、8分後に1人目の購入者が現れた。すると発見者がすぐさまSNSに投稿。瞬く間に情報が広がり、最終的に8万5000人がページを訪れた。「想定では5000人程度だった」(ファリス氏)という。17倍の訪問者につながったわけだ。
ファリス氏はSNKRSをただのECではなく、「スニーカーファンのコミュニティー」と称する。「スニーカーのファンの中心には、影響力を持つインフルエンサーがいる。彼らを通じてほかの消費者に情報を伝播することで、コミュニティーが形成されていく。SNKRSを通じてインフルエンサーがシェアしたくなるストーリーを提供することで、コミュニティーはさらに大きくなる」とファリス氏は言う。そうした体験がブランドとの関係性を強固なものとし、結果的に購入につながる。
国内でもこうしたコミュニティーの強化を狙う。6月以降にSNKRS Stashなどの機能を活用した企画を実施していく計画だ。