「日本史」は企業の広報担当者にとって、プレスリリースの書き方やトラブルが発生した際の危機対応などが学べる最高の教材。誰もが知る有名事件なら事案の背景説明は不要。事の一部始終も明らかですから、本来どう対応すべきであったかはプロの広報ならすぐ分かります。このコラムでは、現役の企業広報が書いた書籍『もし幕末に広報がいたら 「大政奉還」のプレスリリース書いてみた』(日経BP)より一部引用して、日本史に登場する有名な出来事を題材に広報術を学びます。今回の教材は「武田信玄の死」です。

戦国武将の武田信玄と言えば「影武者」でも知られています。自らの死を3年にわたって外部に知られないよう秘密にし続けたとも。もし、この時代に広報がいたらどう対応したでしょうか (画像提供:minoru suzuki/Shutterstock.com)
戦国武将の武田信玄と言えば「影武者」でも知られています。自らの死を3年にわたって外部に知られないよう秘密にし続けたとも。もし、この時代に広報がいたらどう対応したでしょうか (画像提供:minoru suzuki/Shutterstock.com)

 現代の企業、特に株式を上場している企業の場合、経営上のリスクは適時株主に開示する義務があります。経営上のリスクとは、例えば経営者の健康状態です。米アップルの創業者で、今ではすっかり伝説の経営者となった故スティーブ・ジョブズ氏が膵臓(すいぞう)がんになった際も、アップルはその事実を公表しました。そのとき、まさにアップルで広報をしていた私は、今でもその対応を鮮明に覚えています。

日本史の有名な出来事を題材にして、プレスリースの書き方や企業のリスクマネジメントについて面白く学べる『もし幕末に広報がいたら 「大政奉還」のプレスリリース書いてみた』
日本史の有名な出来事を題材にして、プレスリースの書き方や企業のリスクマネジメントについて面白く学べる『もし幕末に広報がいたら 「大政奉還」のプレスリリース書いてみた』

 しかしこのような適時開示という発想は近代的なもので、逆に昔はいろいろな欺瞞が行われてきました。特に戦乱のさなかにおいては、情報操作も重要な戦略です。例えば、もし戦国時代に広報がいたとしたら「いかに相手をだますか」が、広報の重要な仕事だったことでしょう。

 甲斐の国の武将で騎馬軍団を率いて、周囲の武将から恐れられた武田信玄。様々な逸話のある歴史ファンにも人気の武将ですが、「その死を3年間隠し通した」ことでも有名です。この逸話から黒澤明監督の『影武者』という映画も作られています。

 というわけで、武田家の広報として武田信玄の生死についての公式見解、武田家広報の内部資料としてのQ&Aを作ってみました。


報道関係者各位

元亀4年(1573年)
武田家

当家当主の生死に関する一部報道について

 本日、一部報道機関において当家当主武田信玄が死亡しているとの報道がなされましたが、本件は当家が発表したものではありません。当主信玄は健在です。

【武田信玄について】騎馬軍団を率いた武闘派大名として知られ、特に上杉謙信との川中島対抗戦は「戦国名勝負100選」にも選ばれています。また、信玄堤などの土木工事で庶民からも人気で、「元亀3年版上司にしてみたい武将」ランキングでは1位に輝いています。

〈以下部外秘〉
Q:武田信玄は死んだのではありませんか?

A:いいえ。健在で、執務中の姿を多くの家臣が目撃しています。

Q:影武者がいるとの噂は本当ですか?

A:噂については当家ではコメントしません。信玄は至って健康で、天下統一に向けて戦略を練っています。

Q:信玄本人に会うことはできますか?

A:現在上杉家との川中島対抗戦の準備中で、多忙につきすべての取材は一律に辞退させていただいています。

カリスマ経営者のいる広報は「守り」も大事

 「上司にしてみたい武将ランキング」というのはもちろん悪ふざけですが、武田信玄は今でも人気の武将です。「風林火山」をあしらった旗で知られる強力な軍隊、リリースにもあった好敵手上杉謙信とのたびたびの戦など、戦国という時代は信玄抜きに語ることはできないと言ってよいでしょう。実態がどうであったかは想像するしかありませんが、現代の我々には武田信玄はなかなかのカリスマ的なリーダーに見えます。

 先に述べた通り、私自身スティーブ・ジョブズ氏という希代のカリスマ経営者の下で働いた経験があります。広報という立場で社内から彼を見ると、とにかく「一挙手一投足がすべてマスコミのニュースになる」というのがオーバーでないくらい、どこへ行っても注目される人でした。そのため、経営者のイメージを保つこと、あるいはプライバシーを守ることが広報の重要な役割になります。

 例えばCEO(最高経営責任者)の予定は社外秘であり、インタビューなどでもプライベートな質問は遠慮してもらうよう記者にお願いをします。ただ、こうしたガードが堅過ぎると、「あの経営者はマスコミ嫌いだ」などという噂になりますから、ある程度マスコミに対しても「サービス」が必要になります。

 戦国武将もこれと少し似たところがあります。まずプライバシーに関する情報が漏れると刺客を差し向けられてしまい、それこそ生死に関わりますので、絶対にその行動は部外秘だろうと思います。とは言え、軍団をまとめあげるための求心力も欠かせないので、「存在感を示す」という相反する情報発信もまた必要になります。こうしたリーダー像のイメージから、ビジネス本などでたびたび「戦国武将から学ぶ」といった企画が出されるのも納得できますね。

 そんなカリスマ性にあふれた武将ですが、本人が突然死んでしまい、その死を隠していた。この時点で広報としては情報が漏れ、スクープされてしまうケースを想定しておくべきでしょう。広報という仕事は「そうなっては困る」「そんなことが起こるはずがない」と思われる事態を予想して備えておくことが求められる、ちょっと特殊な職種です。私が武田家の広報であれば、当然の危機管理としてスクープが出た時点で、既にQ&Aは手元に持っているでしょう。

バレてしまった場合の対応をどうするか

 万一バレてしまった場合の選択肢は2つです。一つは事実を認め、代わりに新しい当主の体制を速やかに発表し、家臣や同盟を結んだ武将などの動揺を抑え、現状を維持する方法。もう一つはあくまでシラを切り通し、引き続き信玄は生きていると思わせることです。

 前者の場合は緊急会見で一刻も早く新しい経営者、ではなく武将の顔をマスコミに見せて安心感を与えるべきです。一方、後者の死んでいるのに生きていることにするという場合は、むしろ最小限の情報発信にとどめておきたいところです。今回のプレスリリースが非常に短いのもそのためです。

 さらに生きているふりを通し切るには、平時からかなり慎重にコミュニケーションプランを立てておかなくてはなりません。例えば、本当に生きているのに敵方勢力の広報から根も葉もない噂話として「武田信玄死亡説」を流されるケースがあり得ます。その場合、まずスクープの否定が必要です。

 しかし、ここで悩ましいのは、完全否定して「生きているのだ」と白黒をつけてしまうと、今度は本当に死んだ際に、それを隠すのが難しい状況に陥ってしまう点です。無難に「ノーコメント」というグレーな回答をしたくても、「前回は生きているとハッキリ否定したのに、今回はしなかった!」ということになり、「これはクロだ!」とこちらの手の内を明かしてしまうことになってしまいます。

 本当に死亡したときにそれを隠蔽するのであれば、平時からシロ、クロ、グレーの3つの状態を戦略的に使い分ける必要があります。広報のコメントというのは囲碁や将棋のように、先の先まで考えながら出さなければ、後々自分を追い込んでしまうことになります。

 このように問い合わせに対して白黒つけたくない場合のコメントとして、誰が発明したのか分かりませんが「当社が発表したものではありません」という便利な表現があります。こうすることで「あの新聞記事は事実ではありません」という反論になりますが、ではどっちなんだという回答にも実はなっていません。ちなみにあらゆるメディアが一斉に書き立てていたとしても、あくまで「一部報道機関」と言い張り、そんなおかしなことを書く人が一部にいますよ、という印象を与えます。

 ただ、冒頭で述べた通りこれは最近のコンプライアンス(法令順守)の考えで、実際にステークホルダー(利害関係者)が知っておくべき事実だった場合、このようなごまかしはNGとなります。今回のプレスリリースでは、そんなどっちつかずの表現でなく、キッパリ「生きています」と言い切りました。大ウソですね。

 時は戦国、欺瞞作戦も戦略のうちなので思い切ってやってみました。そういう意味では、広報の一言で戦況を大きく変えることも可能でしょう。戦国の乱世は、広報としてやりがいのある時代とも言えますね。いや、私は命が惜しいのでそんな時代で働きたいとは思いませんが……。

6
この記事をいいね!する

『もし幕末に広報がいたら 「大政奉還」のプレスリリース書いてみた』

『もし幕末に広報がいたら 「大政奉還」のプレスリリース書いてみた』
広報・PR関係者に大反響! 重版4刷
連載「風雲! 広報の日常と非日常」でおなじみの現役広報パーソン・鈴木正義氏による初の著書。広報・PR関係者を中心にSNSでも大きな話題に!「プレスリリース」を武器に誰もが知る日本の歴史的大事件を報道発表するとこうなった! 情報を適切に発信・拡散する広報テクニックが楽しく学べるのはもちろん、日本史の新しい側面にも光を当てた抱腹絶倒の42エピソード。監修者には歴史コメンテーターで東進ハイスクールのカリスマ日本史講師として知られる金谷俊一郎氏を迎え、単なるフィクションに終わらせない歴史本としても説得力のある内容で構成しました。
あの時代にこんなスゴ腕の広報がいたら、きっと日本の歴史は変わっていたに違いない……。
Amazonで購入する