井上芳雄です。3月11日から東京芸術劇場プレイハウスでミュージカル『ジェーン・エア』に出演しています。舞台上で役として生きるのが楽しく、喜びの日々です。この3月はミュージカルの開幕ラッシュで、ほかにもいろんなタイプの作品が都内で上演されています。ミュージカルブームといわれた、新型コロナウイルス禍前の勢いを感じさせるような状況です。とはいえ、以前と同じように劇場にお客さまが戻ってきているかというと、そこまでには至っていない様子。ミュージカルの魅力をもっと多くの人に知ってもらい、劇場に足を運んでいただきたい。そんな思いもあって、4月からWOWOWで「生放送!井上芳雄ミュージカルアワー『芳雄のミュー』」という新番組を始めます。僕が司会で、ミュージカルの今を紹介する、歌ありトークありのエンタメ情報番組です。

ミュージカル『ジェーン・エア』は3月11日~4月2日東京・東京芸術劇場プレイハウス、4月7~13日大阪・梅田芸術劇場シアター・ドラマシティにて上演。東京千穐楽公演のLIVE配信あり。エドワード・フェアファックス・ロチェスター役の井上芳雄(写真提供:東宝演劇部)
ミュージカル『ジェーン・エア』は3月11日~4月2日東京・東京芸術劇場プレイハウス、4月7~13日大阪・梅田芸術劇場シアター・ドラマシティにて上演。東京千穐楽公演のLIVE配信あり。エドワード・フェアファックス・ロチェスター役の井上芳雄(写真提供:東宝演劇部)

 コロナ対策の規制が少しずつ緩やかになり、いろんなことが以前の日常に戻ってきたなかで『ジェーン・エア』の開幕を迎えられたのは、いいタイミングだったのかなと感じています。今の世の中は、現実が重いので、ミュージカルにしても明るく楽しいものが好まれる傾向にあります。でも、『ジェーン・エア』は違います。生きることの大変さや、苦難の乗り越え方を描いていて、勇気をもらえる作品になっています。現実にしっかり向き合おうというテーマは、今こそ求められているメッセージだと思うのです。

 『ジェーン・エア』の原作は19世紀に書かれたシャーロット・ブロンテの長編小説。孤児として育ったジェーン・エアは逆境を乗り越えて成長していき、家庭教師として訪れた屋敷の主人エドワード・フェアファックス・ロチェスターと運命的な出会いをします。上白石萌音さんと屋比久知奈さんがダブルキャストでジェーン、僕がロチェスターを演じています。原作は長くて、一筋縄でいかない話ですが、それをミュージカルとしてまとめ上げたのは、演出のジョン・ケアードと作詞・作曲を担当したポール・ゴードンの功績でしょう。ジョンはミュージカル『レ・ミゼラブル』『ナイツ・テイル-騎士物語-』や『千と千尋の神隠し』などを手がけた世界的な演出家で、ポールとは『ダディ・ロング・レッグズ』や『ナイツ・テイル』などでタッグを組んでいます。

 僕が演じるロチェスターは、とても偏屈な男。最初からジェーンが気になっているものの素直には言わないし、シニカルに相手をもてあそぶところもあります。とっつきにくさや身構えた感じもあって、彼が抱えているものをお客さまにどう伝えるかが難しいと感じていました。なので開幕するまでは不安もあったのですが、お客さまの前で演じたときに、いろんなものがすーっと見えました。今回は舞台の両袖にも客席があり、正面の観客席と合わせて、三方向からお客さまに見られています。その舞台上で演じて初めて、ロチェスターの深い孤独感やジェーンを求める気持ちが分かった気がします。

 例えば、屋敷でちょっとした出来事が起こったとき、ジェーンに助けてもらい、この子は何か違うと気づき始める場面があります。そこでジェーンと離れたあとに強い不安を感じて、自然と涙が出てきました。稽古中は全然そんなふうに思わなかったし、特に泣けるシーンでもありません。僕は正面に対して背を向けているので、お客さまに見せるところでもない。その後、歌うときもぽろぽろと涙が出てきます。開幕してからは毎回、その場面で同じ気持ちになります。なぜなのかは分からないのですが、それが演劇のマジックなのでしょう。ジョンの作品に出たときは、そういうことがよく起こります。そうなると、気持ちがずっとつながっていくから、お芝居がどんどん前に進んでいきます。

 ジョンの演出がすごいのは、そんなふうに、お客さまの前で演じたときに気持ちが通って、役として生きられること。これまでジョンの作品で何回も経験していることですが、初日を迎えたときに、「ああ、この感じがジョンのミュージカルのすてきなところだ」とあらためて気づきました。ジョンは稽古でも一つ一つの場面で、ここは孤独なんだよとか、ここで彼女を求めるんだよ、と具体的な説明はしません。その人がどう行動するかを言うだけです。そこで自然と湧き出てくる気持ちに導かれて役者は動きます。その人が舞台上でずっと存在して、生きているのがジョンの演出の特徴だし、僕はそれが好きなんです。これがコメディーだと笑いの反応とか他の要素にも気をとられるので、シリアスな作品のいいところでもあります。ただただ役として舞台上で生きているのがとても楽しくて、まさに「ジョンの魔法」にかけられています。

 それは僕だけじゃなくて、ジェーン役の2人もそうだろうし、ほかの役者さんもそうじゃないかなと思っています。萌音さんと屋比久さんはずっと仲がよくて、開幕してからも共鳴し合っている感じがどんどん強くなり、僕が入る隙は本当にありません(笑)。タイプも声も歌い方も違うけど、今持っている技術やポテンシャル、そしてお芝居に対する心構えは年齢に関係なくリスペクトできて、とても頼もしい2人です。ちょっと意外だったのが、それぞれの初日にすごく緊張していたこと。2人は緊張さえもしないという鉄人的なイメージを僕が勝手に持っていたのかもしれないですが、年相応に緊張しているのがチャーミングで、心を動かされました。もちろん僕も緊張していたので。

戦っているジェーンとささげるジェーン

 2人のジェーンは全く違います。萌音さんは戦っているジェーンです。萌音さん自身はいつもにこやかで誰からも愛されるキャラクターだけど、僕が思っている以上に本人もいろんなものと戦っているのかもしれない……もちろん役柄と本人はイコールではありませんが、そう思わせるようなジェーンです。一方、屋比久さんは、それとはまた異なっていて、ささげるジェーンです。そのときの状況や相手の求めに応じて自分をささげる気持ちが強く伝わってきます。スタンスが違うので、相手役を演じている僕が感じることも、涙が出る箇所も違っているのが面白いです。これも演劇の醍醐味でしょうね。

ジェーン・エア/ヘレン・バーンズ役の上白石萌音とエドワード・フェアファックス・ロチェスター役の井上芳雄(写真提供:東宝演劇部)
ジェーン・エア/ヘレン・バーンズ役の上白石萌音とエドワード・フェアファックス・ロチェスター役の井上芳雄(写真提供:東宝演劇部)
ジェーン・エア/ヘレン・バーンズ役の屋比久知奈とエドワード・フェアファックス・ロチェスター役の井上芳雄(写真提供:東宝演劇部)
ジェーン・エア/ヘレン・バーンズ役の屋比久知奈とエドワード・フェアファックス・ロチェスター役の井上芳雄(写真提供:東宝演劇部)

 ほかのキャストもすてきな方ばかり。春野寿美礼さん、仙名彩世さん、樹里咲穂さん、春風ひとみさんは宝塚歌劇団のOGで、今の日本のミュージカル界が宝塚のOGに支えられていることがあらためて分かります。宝塚では華やかなスターだった方々ですが、今回は飾り立てるわけでもメイクをしっかりするわけでもなく、人としてそこにいる存在感で引きつけます。役柄もいじわるだったり、きつかったり、暗かったりするのですが、みなさん女優として演じることに徹しています。宝塚時代を知っている分、今の姿がよりすてきに見えるし、今回ご一緒できてうれしく思っています。

 大澄賢也さんは『ナイツ・テイル』『千と千尋の神隠し』にも出ていて、最近はジョン・ケアード・ファミリーの一員です。素晴らしいダンサーなのですが、今回は踊るわけではなく、ジョンが役者としての賢也さんの表現を必要としているので、それもまたすてきなこと。同時に、ジョンは子役がちょっと踊るところで賢也さんに相談したりして、クリエイターとしても頼りにしているのを感じました。今回はスタッフに振付師がいないので、賢也さんが踊りを振り付けています。

 子役は岡田悠李さん、萩沢結夢さん、三木美怜さんの3人がトリプルキャストでジェーンの子ども時代と、ロチェスターの被後見人アデールの2役を演じています。キャラクターの違う役を演じ分けたり、フランス語をしゃべったりするのを、それぞれの個性で生き生きとやっています。歌も上手だし、子役たちの活躍ぶりに日本のミュージカルの成熟を感じました。しかも、この3月はミュージカルが花盛りで、その中でも子役が重要な作品がたくさんあります。『SPY×FAMILY』もそうだし、『マチルダ』というまさに子役が主役の作品も。いつの間にか、日本にもメインを担える子役がたくさん出てきているのに驚いたし、ミュージカル界の将来が楽しみです。

ミュージカル・イヤーを機に攻めの姿勢で

 3月の開幕ラッシュを見ると、ミュージカル界も新しいフェーズに入った感じがします。コロナ禍で公演中止になった『RENT』のリベンジがあったり、巨匠ソンドハイムの『太平洋序曲』を新しく描く作品があったり、『SPY×FAMILY』のようなコミック原作の日本独自路線もあります。一方で、6月から始まる『ムーラン・ルージュ!ザ・ミュージカル』のようなブロードウェイの大作もあるので、ミュージカルの中でも種類が増えて、選択肢が広がったといえるでしょう。ただ、僕も全部見ているわけではないのですが、お客さまがコロナ前のように戻ってきているかというと、まだ戻りきってはいないようです。ミュージカル界だけではないでしょうが、人気のある作品もたくさんあるけど、集客が思うようにいかない作品もあるので、お客さまを劇場に呼び込む努力がこれまで以上に必要だと感じています。そんな思いもあって、4月からWOWOWで新番組「生放送!井上芳雄ミュージカルアワー『芳雄のミュー』」を始めます。

 WOWOWでは、演出家の福田雄一さんと組んで「福田雄一×井上芳雄 『グリーン&ブラックス』」という番組を6年間やらせていただき、3月31日で最終回を迎えます。この番組では、コントやコメディーを通してミュージカルを知ってもらうことや、ゲストを呼んで毎回ミュージカルの曲を歌うことができました。引き続きミュージカルの番組をやらせてもらえるとなって、もう一歩先へと考えたときに、ミュージカルの今をリアルタイムでお伝えしたいと思いました。今月はこんな作品があって、僕はこれに出ていますとか、この作品が話題になっていて、こんな俳優さんが出ていますとかを紹介する、歌ありトークありのミュージカルの情報番組です。僕もアイデアを出して、生放送が実現しました。生放送のレギュラー番組で司会を務めるのは初めてなので、わくわくしています。詳しい内容は詰めている最中ですが、例えば僕が公演中のときは、許されるなら劇場の稽古場から生中継はどうだろうとか、あまり形を決めずに、生ならではの機動力のある番組にしたいと考えています。

 番組名にある『芳雄のミュー』は、もちろんミュージカルのミューですが、それに加えて、フランス語でmieux(ミュー)は「より良く」とか「最もよく」という意味だそうです。要は、キャッチーで耳につくものがいいなと思って、スタッフが挙げてくれた候補の中から選びました。新しいことを始める意気込みが伝わればいいですね。

 僕自身の舞台公演は3~4月の『ジェーン・エア』の後、6~8月は帝国劇場で『ムーラン・ルージュ!ザ・ミュージカル』、9月は日生劇場で『ラグタイム』とミュージカルの新作への出演が続きます。本公演をやるだけでも大変な任務ですが、さらにミュージカルの新番組を始めることで、お客さまが劇場に足を運んでいただくきっかけをつくれたらうれしいなと。今年がミュージカル・イヤーなのはたまたまですけど、逆にこのタイミングに乗じて、攻めの姿勢でいきます。

『夢をかける』 井上芳雄・著
 ミュージカルを中心に様々な舞台で活躍する一方、歌手やドラマなど多岐にわたるジャンルで活動する井上芳雄のデビュー20周年記念出版。NIKKEI STYLEエンタメ! チャンネルで連載された「井上芳雄 エンタメ通信」を初めて単行本化。2017年7月から20年11月まで約3年半のコラムを「ショー・マスト・ゴー・オン」「ミュージカル」「ストレートプレイ」「歌手」「新ジャンル」「レジェンド」というテーマ別に再構成して、書き下ろしを加えました。特に20年は、コロナ禍で演劇界は大きな打撃を受けました。その逆境のなかでデビュー20周年イヤーを迎えた井上が、何を思い、どんな日々を送り、未来に何を残そうとしているのか。明日への希望や勇気が詰まった1冊です。
2020年12月21日発売/発行:日経BP/発売:日経BPマーケティング/定価2970円(税込み)
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「井上芳雄 エンタメ通信」は毎月第1、第3金曜に掲載。第132回は4月7日(金)の予定です。

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