徹底分析 ダイソー大解剖 第6回

スーパーの軒先で生活必需品を売る移動販売から生まれた大創産業。創業当時はまだ「100円均一」ではなかった。1980年代後半からの円高、消費税導入、バブル経済崩壊という波に乗り、全世界6338店舗にまで急成長した同社の50年。高価格帯商品を扱うマルチプライスや海外出店など、数々のチャレンジや失敗があった。

 1972年3月、大創産業の創業者である矢野博丈氏が広島県で創業した「矢野商店」が大創産業の原点だ。夫婦の二人三脚で始めた移動販売業。スーパーマーケットの軒先や催事会場、公民館や空き地などを借り、ビールケースに渡したベニヤ板やブルーシートの上に商品を入れたかごを並べる。始まりは、まるで露天商のようなビジネスだった。

 販売する期間は長くて1週間。短い時は1~2日間だけのこともあった。扱っていたのは、タワシやほうき、ざる、鍋、日用雑貨などの生活必需品だ。あらかじめ前日に、出店するエリア一帯にある各家庭を一軒ずつ回り、チラシをポストに投函(とうかん)。翌日に店を開き、集まってきた客に商品を売る。期間が過ぎたらトラックに荷物を積み込んでまた別の場所に移動するといった日々の繰り返しだった。創業当時、商品の価格は「100円均一」ではなかった。他の同業者と同じく、さまざまな商品をさまざまな価格で売っていた。

当時は商品を入れたワゴンをスーパーの軒先などに並べて販売していた
当時は商品を入れたワゴンをスーパーの軒先などに並べて販売していた

 潮目が変わったのは、ある雨予報の日だった。雨が降れば客の出足も遅くなる。そう考えた矢野氏は、ゆっくりと支度を整えて開店時間ぎりぎりに場所に向かったところ、すでに客の大行列ができていた。

 驚きながらも急いで商品の陳列を始めるが、客が自ら段ボール箱を開けはじめ、「これなんぼ?」と次々に質問をする。始めは一つ一つ価格を調べて答えていたが、当時扱っていた商品は約300アイテムはあった。確認が間に合わなくなり、追い詰められた矢野氏が口にしたのが「もう全部100円でええ!」。その瞬間から客の目の色が変わり、商品が売れに売れた。「100円均一」にこれほどまでの引力があったというのは矢野氏にとっても大きな発見だった。そこから大創産業の100円均一の歴史が始まることになる。

 100円均一にしたことで矢野商店の売り上げは伸びた。「矢野商店は客を集められる」との評判を聞きつけ、多くのスーパーから声がかかる。4トントラックいっぱいに商品を載せて、広島から東京のスーパーにも向かったこともあるほどだった。

 「大創産業」として法人化したのは77年。「いつかは年商1億の大きな会社を創りたい」といった目標から名付けた。広島以外にも東京、大阪、福岡などに営業所を増やし、最大80台の4トントラックで全国各地で移動販売を行うようになった。

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