現代アートの最前線を走り続けてきた画家、ゲルハルト・リヒター。90歳を迎えてなお新シリーズに取り組み、絵画に何ができるのかを問い続ける。その60年に及ぶ画業をたどる作品群が来日中。日本の美術館で16年ぶりの回顧展だ
※日経トレンディ2022年1月臨時増刊号より。詳しくは本誌参照

手ブレを起こした写真かと見まがう人物像や風景画、カラーチップを配列したカラーチャート、色彩鮮やかな抽象画など、多岐にわたる制作活動を続けてきた現代アートの巨匠、ゲルハルト・リヒター。オークションでは数十億円の価格が付くことでも知られ、その作品は世界の名だたる美術館がコレクションしている。
今回の展覧会に出展されているのは、ゲルハルト・リヒター財団の所蔵作品や作家自身が手元に残してきた作品を中心に約140点(東京会場は122点)。初来日も85点が並ぶ。
中でも、強い印象を鑑賞者に与える作品群が2014年完成の『ビルケナウ』だ。制作時からこの作品群は売ることができないと位置付け、手元に置いていた。将来にわたってアート市場に出ることがないようにとの思いが、財団設立のきっかけにもなったとされる。

第2次世界大戦時、アウシュビッツ=ビルケナウ強制収容所でゾンダーコマンド(特殊労務班)によって秘密裏に撮影され、持ち出された記録写真をベースに描かれた大型の抽象画の連作。幅2メートル、高さ2.6メートルの作品4点からなる。
1932年ドイツ東部のドレスデンで生まれ、ドレスデン造形芸術大学で社会主義リアリズムの教育を受けた後に、西ドイツに渡って活動してきたリヒターにとって、ナチス・ドイツが組織的に行ったユダヤ人などへの迫害や大量殺戮「ホロコースト」をどう描くのかは避けては通れない課題だった。長い間「ホロコーストを芸術的に表象することが可能か」に取り組み、過去2度挑んだものの断念し、3回目でついに完成した。アトリエの壁にこの記録写真を張っていたこともある。

『ビルケナウ』の展示室は、油彩作品、それを撮影した写真ヴァージョン、グレイの鏡の作品、記録写真のデジタル複製とで構成されている。抽象絵画である油彩画の表面は、記録写真の色調に対応するかのような黒と白を基調に、赤や緑の絵の具が塗布されたり、キッチンナイフによって引き伸ばされたり、削り取られたりしている。一見したところでホロコーストの記録写真の痕跡を見いだすのは不可能。名付けられたタイトルによって描かれているテーマを理解すると、絵画の下には記録写真が潜んでいるのか、なぜ表面が覆い尽くされているのかといった疑問が湧いてくる。さらに、対面にある複製写真は、絵画と同じものなのかについても考えさせられる。この一室にたたずむと、答えのない「?」が、潮が満ちる海の中にいるように押し寄せて来る気がした。
作家自身はこの作品が完成した後、インタビューで「自分が自由になったと感じた」と答えている。同作を含む財団が所蔵する作品の多くは、ベルリンのノイエ・ナショナルギャラリー(国立美術館)に寄贈・寄託され、2023年には公開が予定されており、26年以降は現在建築中のドイツの20世紀美術館に収蔵される。


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