インクルーシブデザインでは、将来に発生するさまざまな「制約」を考慮することで持続的な事業の開発を目指している。前回は「極端ユーザーマーケティング」を通じて、高齢社会における「身体制約」をリアルに感じて新規事業の開発に生かす方法を紹介した。今回は「環境制約」を受け入れた新規事業の開発に不可欠な「バックキャスト思考」について、インクルーシブデザイン・ソリューションズ(IDS、東京・江東)社長の井坂智博氏が実例を交えて解説する。
「環境制約」を受け入れることが土台
バックキャスト思考とはもともと環境問題を解決するために使われてきた言葉です。まずはその本質を理解してもらうために簡単な例題を用意しました。
「居間の電球が1つ切れてしまいました。あなたならどうしますか?」
これは私の師匠にあたる東北大学名誉教授で合同会社地球村研究室代表社員の石田秀輝氏が、東京都市大学教授の古川柳蔵氏と共同で出版した書籍『正解のない難問を解決に導く バックキャスト思考』(ワニ・プラス)の冒頭にある例題です。
多くの読者は「電球を買ってきて、付け替える」と答えると思います。これは従来の思考法である「フォアキャスト思考」による解決策です。つまり、電球がなくなって暗くなったという「制約(問題)」を排除する思考です。現在起こっている問題や、現在の延長にある問題に対処するには一般的な思考と言えるでしょう。日本企業の多くはこの思考で、製品・サービスを開発してきたと思われますが、これが限界に来ているのは第1回で紹介した通りです。
「いっそ全部の電球を消して、窓を開けて星空や風の音を楽しむ」と考えた読者は「バックキャスト思考」で解決したことになります。こちらは「制約」を受け入れる思考です。ここまで考えた読者はいないかもしれませんが、未来永劫(えいごう)、電力がいつでも潤沢に使えるとは限らないという「制約」を受け入れて、そこから逆に現在の状況を考え、制約のある生活を楽しむ解決策を選択したわけです。
フォアキャスト思考とバックキャスト思考の違いをまとめると以下になります。
→目の前の制約(問題)を取り除くことで問題を解決し、生活者に貢献する思考。不便を解決して便利なモノ・コトを提供する
●バックキャスト思考
→将来の制約(問題)を受け入れて、生活者に新たなライフスタイルへの変容を促すことで問題を解決する思考。加えて、現在に戻って変容の推進に向けた施策を開始する
「環境制約」は避けて通れない社会課題
バックキャスト思考のポイントはご理解いただけたでしょうか。重要なのは、とにかく制約を素直に受け入れることです。前回紹介した「極端マーケティング」では、将来の「身体制約」を受け入れることに重点を置いて、デザイン思考の「問題定義」を考えました。バックキャスト思考では、「環境制約」を受け入れて問題定義を実行します。その思考の流れを整理すると、下図のようにまとめることができます。「身体制約」と「環境制約」を受け入れて社会課題を抽出し、現在の状況を考慮して問題定義を実施する点が大切です。
受け入れるべき環境制約は下図のようにたくさんあります。われわれが便利で快適な生活を求めた結果引き起こされた「人間活動の肥大化」が原因です。そして環境制約をテクノロジーが解決してくれると過小に考えてはいけません。技術の進化で冷蔵庫やエアコンなどの省エネ化は進みましたが、その一方で私たちはパソコンやスマホなど新たな電子機器を使うようになっています。全体のエネルギー消費量が劇的に減少するには至っていないのです。SDGs(持続可能な開発目標)やカーボンニュートラル(温暖化ガス排出実質ゼロ)時代を迎え、将来の環境制約から発生する社会課題の解決が重要になっている中、バックキャスト思考は絶対に必要だと考えます。
SDGsはバックキャスト思考そのもの
とはいえ、環境制約は身体制約と違ってリアルに感じることは難しいと思います。自然災害が発生し、避難所などでは電気が使えない、飲み水がないといった場面に遭遇することもありますが、このような体験はまれです。
そこで注目したいのがSDGsです。2030年までに世界が抱える課題を解決することを目標に17のゴール・169のターゲットを国連が定めたものです。実はこのSDGs、とりわけ「生物圏」に属する4つの目標は環境制約そのものです。つまりSDGsは、解決すべき社会課題であると同時に、将来受け入れるべき環境制約も示しているのです。「満足なエネルギー供給ができなくなる」「飲み水が十分に行き渡らない」など、世界はさまざまな課題を抱えています。ビジネスパーソンは、環境制約を学ぶためにもSDGsを見ておく必要があるのではないでしょうか。
また、SDGsへの各国の取り組みはバックキャスト思考で進められています。どういうことかと言いますと、国連が決めたのは目標だけで、2030年までにやることは各国に任せているからです。ゴール(=解決すべき社会課題)を抽出し、そのゴールへの道筋を各国は現在に戻って問題定義し、施策に落とし込んでいるわけです。
二項対立がイノベーションの芽
バックキャスト思考では環境制約を受け入れると強調しましたが、その受け入れ方には注意が必要です。絶対に我慢や節約で受け入れてはいけません。あくまで制約を肯定し楽しむという受け入れ方をしてください。ところが、肯定的に受け入れると、問題定義のところで二項対立が発生することが多くなります。「あちらを立てれば、こちらが立たない」という状況になりますが、ここの根が深いほど大きなイノベーションのチャンスになります。
例えば、現在は新型コロナウイルス感染症の拡大で経済活動が制限されています。ワクチンや治療薬で新型コロナの脅威を排除して元の生活に戻りたいと考えるのは、典型的なフォアキャスト思考です。バックキャスト思考では、新しい感染症による脅威を今後もあり得ると受け入れたうえで、経済活動を復活させるための問題定義を行います。新型コロナと上手に付き合いながら経済活動を続ける新しい事業を創造し、新たなライフスタイルを提案します。
業界にもよりますが、コロナ禍においても過去最高の業績を上げた企業はたくさんあります。こうした企業では新型コロナ対策と経済活動の復活という二項対立をバックキャスト思考で解決できたケースもあったのではないでしょうか。恐らく将来新たな感染症が発生しても持続的な企業活動を続けられるはずです。
最後に2つ、バックキャスト思考の事例を紹介します。
1つは第1回に紹介した米マイクロソフトの海底データセンター研究プロジェクト「Project Natick」です。同社は、「将来エネルギーが不足する」という環境制約を受け入れて問題定義を実施し、今できる施策として海底にデータセンターを沈める実証実験をしました。
実証実験の結果は良好で、海底では酸素と湿気による腐食、室温の上下などがほとんどないため故障率は地上の場合と比較して大きく減少したそうです。実証実験としてはものすごい投資だと予想できますが、時価総額・企業価値の高い企業は今から将来の環境制約への準備を怠っていないのです。
●フォアキャスト思考:消費電力の小さいサーバーマシンを開発するなど
●バックキャスト思考:データセンターを海中に沈め、洋上風力発電など再生可能エネルギーで電力を賄う
2つめは、バイオガス施設「南三陸BIO」の事例です。東日本大震災で宮城県の南三陸町は津波に襲われ、甚大な被害を受けました。その結果、町外に依存していた生ごみの処理も立ち行かなくなってしまいました。とはいえ、生ごみの焼却施設を建ててもCO2(二酸化炭素)が排出されてしまうため、環境負荷が高く持続的ではありません。NECソリューションイノベータ(東京・江東)と筆者の師匠である石田氏が中心となって町民とワークショップを何度も行い、バックキャスト思考について説明しました。そのかいあって「自然災害でリセットされない持続的な町づくり」を目標に掲げることができたといいます。そこから生ごみの循環施設が構想されました。
●フォアキャスト思考:生ごみの焼却施設を造る、町外の施設に焼却を依頼
●バックキャスト思考:生ごみを燃料に変える
アミタ(東京・千代田)は、15年10月に資源・エネルギーの南三陸町内での循環を担う拠点としてバイオガス施設「南三陸BIO」を開所しました。南三陸町の住宅や店舗から排出される生ごみやし尿汚泥などからバイオガスと液体肥料を生成します。町民もごみの分別に積極的に協力することで、お互いの信頼関係を深め、自然との共生関係を実現できたと喜んでいるそうです。
ここまでバックキャスト思考について説明してきましたが、繰り返すようですが、今後は新規事業の開発において環境制約を受け入れながら、思考を巡らすことで、将来の持続的な事業の創造につながっていきます。今回でデザイン思考の問題定義のステップは終わります。次回は「アイデア」をどのように出していけばいいか、IDSのワークショップの実例から紹介していきます。
(構成/中山洋平、図版はIDSの資料を基に編集部で作製、写真/Shutterstock)
セブン銀行ATM~視覚障がい者の意見を生かした音声取引
セブン銀行のATMは、2021年9月末時点の設置台数が2万5936台と、セブンイレブンの店舗以外にも設置が進んでいる。その理由は提携金融機関が多いことなどいくつかあるが、インクルーシブデザインを取り入れて開発した使いやすさも大きく貢献している。同社ATMソリューション部の水村洋一氏に開発の経緯や今後の方針などを聞いた。
きっかけは01年の開業時に頂戴した一通の手紙です。そこには「視覚障がい者にも使いやすいATMを開発してほしい」と書かれていました。ただ、残念ながら開業当時はATMの設置を優先しましたので、手紙の声に応えることはできませんでした。
06年にようやく態勢が整い、「お引き出しは1を……」というように案内する視覚障がい者のための音声取引機能の開発に着手。利用する受話器は、トラブル時にコールセンターと通話するために元からあったインターホンを活用しました。開発に当たっては、約20人の視覚障がい者の方にインタビューを実施したり、プロトタイプをテストしたりしてもらいました。
私もインタビューやテストの現場にいたのですが、一番驚いたのが音声案内のスピードでした。聞き取りやすさを優先してゆっくりにしていたのですが、実際には「もっときびきび案内してほしい」というご意見をもらいました。お金やレシートが出てくる場所については、「分かりやすく指示してほしい」という声も多かったですね。「カードを入れた場所の左から出ます」など、できる限り具体的な案内を心がけました。
音声取引は、08年からATMのソフトウエアを更新することで本格的に提供を開始しました。ありがたいことに、「案内が丁寧で使いやすい」と視覚障がい者のコミュニティーで支持が得られ、認知が広がりました。
セブン銀行では、「ATM+(プラス)」というコンセプトを打ち出しています。ATMを現金の窓口から、顔認証などを活用して行政や医療機関との連携など生活の窓口に進化させようと考えています。生活の窓口であるからには、障がいの有無や年齢を問わず使いやすさが求められます。ますますインクルーシブデザインという考え方が大切になってくると思います。(談)
(構成/渡貫幹彦=経済メディア編成部)