どうすれば消費者の潜在的な不満やニーズを見つけ出せるのか。この難問の解決に「インクルーシブデザイン」という手法が注目されている。これは企画や開発を障がい者、高齢者など制約のある多様な人々と一緒に取り組むデザイン思考だ。花王やソニーグループなど大手企業も取り組んでいるデザイン思考をアップデートするインクルーシブデザインについて、インクルーシブデザイン・ソリューションズ(IDS、東京・江東)社長の井坂智博氏が解説する。
制約のある「リードユーザ」と一緒に製品・サービスを開発
インクルーシブデザインとは、障がい者、高齢者、外国人など、これまで企画や開発のプロセスから除外(Exclude)されてきた制約のある多様な人々と一緒(Include)に企画や開発を進めるデザイン手法です。英国のロイヤル・カレッジ・オブ・アート(英王立芸術大学院)のロジャー・コールマン名誉教授から生まれた考え方で、企業や行政などのイノベーションに寄与し、多様性のある持続的な社会づくりを実現するサービス開発の支援がその目的です。
筆者はインクルーシブデザインのワークショップとそれに基づいたコンサルティングを通じて、新規事業開発、企業の商品・サービス開発の支援、それに伴う人材の育成などをしています。あくまでもビジネス領域への応用を掲げ、健常者と制約のある人々が対等な関係を築き、そうした環境の中でイノベーションを生み出す手法としてインクルーシブデザインを紹介しています。とはいえ、国内ではまだまだ福祉的な意味合いで捉えられていて、制約のある人々にとって使いやすい製品・サービスを生み出し、“誰ひとり除外しない社会システムをつくりましょう”という文脈の中でインクルーシブデザインが使われることが多いように思います。
そんな中ですが、最近では大手企業を中心にインクルーシブデザインの活用事例が増えています。例えば、花王のアタックZEROの新容器は視覚障がい者や手に軽度のまひがある方、シニアなどの協力を得て開発されました。特に1回のプッシュで5gを計量できる「ワンハンドプッシュ」は、視覚障がい者だけでなく健常者からも好評のようです。またセブン銀行のATMも多様な人たちが開発に加わっています。こちらも視覚障がい者だけでなく高齢者にも使いやすATMとして、設置台数を増やしています。このほかソニーグループも公式サイトなどでインクルーシブデザインにコミットしていることを明らかにしています(末尾の別掲記事参照)。
製品開発の元となるニーズが見つからない
では、インクルーシブデザインがイノベーション創発にどうして有効なのか。その背景を解説していきましょう。
まずは既存のマーケティング手法の限界を超えられるからです。多くの日本企業は、目の前にある不便(=顕在ニーズ)に対応することで成長を続けてきました。家電の三種の神器などはその最たる例でしょう。しかし、21世紀に入り「モノが足りない時代」から「モノがあふれる時代」へと変化し、不便解消のマーケティングは限界を迎えています。つまり製品やサービス開発の元となる顕在ニーズを見つけることが難しくなってしまいました。仮に見つかったとしてもすぐに他社にまねされて、大きな収益は得られません。
上は、企業が選ぶべき事業領域を示した図です。多くの日本企業が(1)の領域を主戦場にしてきました。できるだけたくさんの人が不便を感じ、できるだけ解決方法が優しい、つまり投資効果の高いニーズを探してきたのです。ですが、今後はどの企業も最終的に(4)の領域を目指していく必要があると考えます。そして、(4)の事業領域を開拓するためには、制約のある人々の行動や視点がヒントになるのです。
例えば「目が見えない」「耳が聞こえない」というのは、健常者からすれば極端といえる制約ですが、超高齢社会を迎える未来の消費者の状況を少なからず先取り(リード)している可能性が高い。つまり将来の社会課題を示唆しているわけです。現時点では、経済合理性の外にある事業かもしれませんが、近い将来、他社に対して大きな競争力を生み、持続的な事業となり得ます。このように制約のある人々の行動を観察し、事業開発に生かすことを、筆者は「極端ユーザーマーケティング」と呼んでおり、インクルーシブデザインにおけるイノベーション創発の大切なプロセスとなっています。
極端ユーザーマーケティングで大事な役割を担っているのが、たくさんの制約がある中で自立した生活を目指している方々で、IDSでは「リードユーザ」と呼んでいます。リードユーザは、ある意味制約を楽しんでもいます。筆者が知っている視覚障がいのあるリードユーザは、自動販売機で飲料を買うことを“ロシアンルーレット”と呼んでいます。我慢ではなく、不便を受け入れながらどう楽しんで生活していくか、ここには将来の社会課題とその解決策がセットになっているのかもしれません。IDSでは現時点で240人のリードユーザを認定しています。リードユーザは、企業や地方自治体のイノベーションに必要な研修、ワークショップ、フィールドワークなどのファシリテーターを務めています。
福祉やバリアフリーではない領域を見つけ出す
リードユーザの観察とインタビューから、(4)の事業領域を目指すわけですが、これには訓練が必要です。その方法論は次回以降で詳しく解説しますが、まずは(2)や(3)の領域の事業を思考し、(4)をゴールとします。リードユーザが抱える不便を抽象化して、背後に潜む社会課題をあぶり出せるかがポイントとなります。
ちなみに(2)の領域は、ユニバーサルデザインの領域です。日本企業が事業として捉えられていない福祉的な市場で、規模が小さくて利益が出ません。利益を出そうとすれば、製品・サービスの単価が高くなってしまいます。以前、視覚障がい者を対象にした音声で知らせる体温計が発売されましたが、価格を高くせざるを得ませんでした。結果的に自治体が補助する福祉的な製品になりました。
(3)の領域は「バリアフリー」にあたります。車椅子の方のために「スロープを作りましょう」「エレベーターを造りましょう」という考えになりますが、インフラ整備のためには莫大なコストがかかります。一企業が推し進めるには問題の難易度が高すぎるのです。そういった理由から、(2)(3)の領域は、経済合理性の外側にあると位置づけています。
なお、極端ユーザーマーケティングでは、主にリードユーザの身体制約から社会課題(=新規事業の元)を探しますが、SDGs(持続可能な開発目標)やカーボンニュートラル(温暖化ガス排出実質ゼロ)時代を迎え、将来の環境制約から発生する社会課題の解決もより重要になっています。「もうかるか」という評価基準ではなく、ここでも地球が持続することを優先した(4)の領域の事業開発が不可欠になります。いずれにせよ、これからの事業開発は身体制約と環境制約の両方を考慮することが大切というわけです。
最近は(4)の領域の開拓を企業理念として目指す企業は増えています。米マイクロソフトは、カーボンニュートラルに備えて、海底にデータセンターを沈めた実証実験をしています。動作に必要な電力は、すべて風力と太陽光など再生可能エネルギーでまかなったといいます。国内では、まだまだモノとサービスの販売とその強化が企業活動のほとんどというケースが多いと思いますが、将来の社会課題の解決に向けての投資を2割くらいから始め、これが半々になり、いずれは割合が逆転しているような道筋を選んでほしいところです。そのような活動が、依存型社会から自立型社会への変容に寄与する企業価値創造につながるのではないでしょうか。
さて、こちらも次回以降詳しく解説しますが、将来の身体制約、環境制約から社会課題を見つけたら、それを解決する施策を現段階から始めることになるのです。そのときに必要なのが「バックキャスト思考」です。現在の延長線上で将来を考えるのとは逆に、将来の社会課題の解決を見据えて、今何をすべきかを考えることです。こちらもインクルーシブデザインによるイノベーション創発では欠かせない思考になります。
本物のデザイン思考を手に入れる
インクルーシブデザインがイノベーションの実現に有効な理由のもう1つは、この連載のテーマであるデザイン思考との関係です。インクルーシブデザインは、デザイン思考を本物のデザイン思考にアップデートします。
一般にデザイン思考は上記の5つのステップで製品やサービスを開発しますが、日本企業のデザイン思考がうまく機能しない一番の理由は、「問題定義」の欠落にあると考えています。「共感」から問題定義の過程がしっかりと踏まれていないのです。モノづくりをするうえで共感から「アイデア」に直行してしまうので、これでは不便を探して、それをアイデアで解決するこれまでの思考とまったく同じです。繰り返しますが、モノがあふれる時代、アイデアだけでは大きな市場はほとんど生まれません。生まれたとしてもすぐにまねされて、価格競争に追い込まれます。
インクルーシブデザインと組み合わせたデザイン思考では、リードユーザの行動を観察して共感した不便から必ず社会課題を抽出するようにしています。勝負はアイデアで決まるのではなく、問題定義で決まることを覚えておいてください。リードユーザの不便を単純にアイデアで解消するだけでは、(2)や(3)の領域になり、持続的な事業創造にはつながらないのです。
最後になりますが、インクルーシブデザインがイノベーション創発に貢献する理由として一番大きいのが既成概念の破壊かもしれません。よくビジネス書などにはイノベーションを起こすには既成概念の破壊が不可欠などと書かれています。リードユーザの行動を観察すると、想像以上に制約のある生活をしており、健常者の既成概念はガラガラと崩れていきますし、社会課題に対する視座が高くなっていくのです。ぜひみなさんもアイデア勝負ではなく、この連載をきっかけに将来の社会課題解決に一歩踏み出してください。
次回は共感から問題定義の方法論を、極端ユーザーマーケティングやバックキャスト思考を駆使して具体的に解説します。
(構成/中山洋平、写真提供/インクルーシブデザイン・ソリューションズ、図版は同社の資料を基に編集部で作成)
ソニーグループ~身近な制約に目を向けることから始めよう
ソニーグループのアクセシビリティ・HCD推進グループの甘利恵理子氏に同社の取り組みを聞いた。
2019年のSXSW(サウス・バイ・サウスウエスト)で展示した「CAVE without a LIGHT」で、インクルーシブデザインという言葉を対外的に使い始めました。ソニーの音響や触覚技術を使った、暗闇の中で見知らぬ人同士が一緒に楽器を演奏する体験型エンターテインメントで、制作には視覚に障がいのある方や車椅子の方が参加しています。健常者も障がいのある方も同じように楽しめるエンターテインメントの形を訴求しました。
インクルーシブデザインには2つの方向性があると思っています。1つは「CAVE without a LIGHT」のような大きなイノベーションにつながる活動。もう1つが地道なUI/UXの改善です。ソニーはインクルーシブデザインが一般的でなかった2012年から米国の法律に対応することをきっかけにアクセシビリティー(利用のしやすさ)の実現に取り組んできました。以前から製品の操作性の評価などに協力する社内モニター制度があるのですが、最近は障がい者など制約のある方もたくさん参加しています。こうした活動から「お手元テレビスピーカー」が生まれました。特にカラーのラベルを使う工夫でセットアップが誰でも簡単にできる点が好評です。
障がいのある方と共に進める活動については「難しい」とおっしゃる人もいますが、インクルーシブデザインの本質は制約のある方の不便に気付けるかどうかです。例えばベビーカーを利用している人、親の介護を始めた人――こうした身近な制約のある方の不便に気付くことからインクルーシブデザインは始まるのだと思います。(談)
(構成/渡貫幹彦=経済メディア編成部)