本連載では、方法論としてのデザイン思考をどうやって企業の具体的なイノベーションに結び付けるかを学んでいく。前回の記事では、イノベーション戦略を構築する際の企業レベルにおける考え方を米マイクロソフトの事例で解説した。最終回の今回は個人やチームなど「マイクロレベル」について、マイクロソフトの事例をさらに深く分析していく。

 前回で解説したように、「ライバルと戦わない」といった米マイクロソフトのような戦略を打ち出しても、社内の文化や仕組みが否定的になれば機能しません。「市場とは戦場である」「ライバルを打ちのめし、勝つことがすべて」という考え方であれば、社内から批判されるでしょう。

前回(第9回)はこちら

 以前のマイクロソフトは競争的・攻撃的な文化が強かったため、サティア・ナデラCEO(最高経営責任者)は社内の文化改革のため、3つを最優先事項として取り組みました。(1)顧客第一の考えを持ち、(2)多様性を受け入れ、(3)1つの会社として団結した活動を行う、ということを日々の実践で自ら示したのです。

 文化改革に向けた取り組みとして、全社員が毎年参加する行事の合間に、チームで協力しながら顧客のためのプログラム開発を集中的に行う新しいイベント(ハッカソン)も始めました。当日は多様なメンバーでチームを組み、各自が解決したいと情熱を持てる顧客の課題を意識して実施します。例えば「障害がある人がもっと利用しやすいコンピューターを開発する」といったテーマを設定し、実際にプログラムを開発します。最後にプレゼンテーションを行い、優れた機能と評価すれば、WordやOutlookなどの製品に成果を反映します。

 このイベントの重要な点は、参加する個人に自由な権限があり、さらにナデラCEOが重視するマイクロソフトの文化改革、すなわち(1)顧客第一の考えを持ち、(2)多様性を受け入れ、(3)1つの会社として団結した活動を行う、の3つを短期間で体験できることにあります。顧客の課題解決を第一にして、自分たちが情熱を持てるテーマを選び、共通の目的を持った多様性のあるチームを組んで、一致団結して協力することで、製品に実装される可能性のある新しい機能が開発される。ハッカソンの形式を取っていますが、文化を変えるための仕組みを意図的に取り入れることで、一貫して戦略を実行できる社内環境を整えました。

ナデラCEOの改革が実を結ぶ

 社内の文化や仕組みを整えながら戦略実行に必要な環境を構築した後に必要なのは、毎日の業務で価値創造のための実践を繰り返すことです。ポイントは、デザイン思考の枠組みでも重要視されている「共感」です。共感の重要性について、ナデラCEOは米スタンフォードのビジネススクールに登壇した際、次のように発言しています。

 「共感はあらゆる仕事に関係しています。もし、まだ満たされていないニーズや、ばく然としたニーズを満たすことがイノベーションなら、どうやってそれらのニーズを把握/理解できるでしょうか? ニーズを推測するには共感が必要です。デザイン思考とは共感です」

 深い共感力を持ってできる限り顧客のことを考え、顧客のニーズを理解し、彼らのニーズに応えるには常に顧客の声に耳を傾ける姿勢が欠かせません。マイクロソフトのあるチームが、米カリフォルニア州の西海岸で活動するベンチャー企業と話をしたときのことです。このベンチャー企業のニーズは、マイクロソフトによるWindowsではなく、マイクロソフトの長年のライバルOSであるLinuxにあると分かりました。

 マイクロソフトが持っていたLinuxに対する敵意は強く、そうしたニーズがあるベンチャー企業を見たら「彼らは私たちの顧客でない」と考えたり「どうすればLinuxからWindowsへ乗り換えさせられるか」と思案したりしたことでしょう。このような企業は顧客の事情を理解しようとする姿勢がなく、共感力に欠けています。

 幸いなことに、ナデラCEOが中心となって行った文化変革の取り組みは着実に成果を出していました。ベンチャー企業との打ち合わせが終わってすぐに、日ごろから顧客への共感を重視していたチームによって、Linuxに対する本格的なサポート体制を構築することが決まったからです。

組織の外と中の環境をうまく融合させる

 これまで紹介してきた視点や知識の理解を深めるために、前回と今回はマイクロソフトのケースを取り上げながら、マクロレベルな視点による社会/業界への理解、メゾレベルな視点の戦略構築や組織づくり、そしてマイクロレベルの視点における共感の重要性について紹介しました。そして連載「デザイン思考べーシック」ではデザイン思考を、連載「デザイン思考プロフェッショナル」ではイノベーション戦略を主なテーマとして、新しい価値を生み出すためのさまざまな視点について紹介してきました。

 デザイン思考を活用すれば、顧客や社会に対する新しい価値が期待できますが、その一方で、戦略がなければ何のための実行なのかが曖昧になります。さらに、戦略を機能させるには、組織の文化や仕組みにも目を向けながら、NCS理論のように組織の外と中の環境をうまく融合させ、新しい価値創造に向けて行動することが求められます。

 本連載の目的は、新事業開発やイノベーションに興味のある読者の方に向けて、広い視野で事業づくりや事業展開に着手できるように、理論的かつ体系的な視点で知識を提供することでした。私自身もそうですが、それぞれが所属する業界や組織における役割が千差万別な中、それぞれの領域で互いに価値を創造しながら、よりよい社会をつくっていけたらと思い、進めてきました。本連載も今回で最終回。少しでも読者の方の役に立てたのであれば大変うれしく思います。

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