本連載では、方法論としてのデザイン思考をどうやって企業の具体的なイノベーションに結び付けるかを学んでいく。前回の記事では、イノベーション戦略を構築する際の重要な考え方として、NCS理論を紹介した。今回は、米マイクロソフトの事例で、NCS理論を具体的に解説する。

 前回はイノベーション戦略を構築する際の重要な考え方として、NCS(Nature - Culture – Structure)理論を取り上げました。社外の環境(ネイチャー)に対する理解に加え、社内の環境である組織文化(カルチャー)と組織構造(ストラクチャー)の重要性を解説しました。

 今回はNCS理論から、どのようにイノベーション戦略を実行していくのかを、米マイクロソフトの事例を交えながら紹介します。前回と同様にイノベーションにおける3つの活動単位、すなわち1.社会/業界の理解による立ち位置の設定(マクロレベル)2.戦略構築と実行のための組織づくり(メゾレベル)3.デザイン思考の活用(マイクロレベル)を踏まえながら考えます。

前回(第8回)はこちら

ネイチャー、カルチャー、ストラクチャーの3点のバランスを取りながら戦略構築すべき(筆者作成)
ネイチャー、カルチャー、ストラクチャーの3点のバランスを取りながら戦略構築すべき(筆者作成)
イノベーションにおける3つの活動単位(筆者作成)
イノベーションにおける3つの活動単位(筆者作成)

会社の存在意義は何か、社会/業界目標の設定と自社の位置づけ

 新しい価値を創造するためには、広い視野で社会動向や業界動向を把握する必要があります。そのうえで、これからの社会や業界の方向性を考え、どのようなイノベーションが必要となるかを考えます。このプロセスの具体例として、ビル・ゲイツではなく、サティア・ナデラによるマイクロソフトの改革事例を取り上げます[1]

 Office製品などを提供するマイクロソフトの歴史は、ゲイツとポール・アレンによって1975年から始まりました。ゲイツがCEO(最高経営責任者)を務めていた当時のマイクロソフトのミッションは「世界中の机と家に1台のコンピューターを」。マイクロソフトが躍進した80~90年代前半は今ほどパソコンが普及していなかったため、このミッションは会社を成長させるうえでもテクノロジー業界や社会全体の発展を考えた場合でも、極めて妥当なものと言えたでしょう。しかし21世紀に入り、当時のコンピューターよりも高性能なスマートフォンを私たちは1家に1台でなく1人1台の感覚で使っています。

 そのような状況の中、2014年にCEOに就任したのがサティア・ナデラです。20世紀の発想で企業経営を行うことはできないと考え、彼は自らに「マイクロソフトは何のために存在するのか?」と問いかけました。マイクロソフトの存在理由を、新しく定義するためです。

サティア・ナデラ氏(米マイクロソフトのサイトより)
サティア・ナデラ氏(米マイクロソフトのサイトより)

 このときナデラは「デバイスの多様化」と「クラウド化」という世の中の現象に注目しました。前者のデバイスの多様化は、パソコンに限らないタブレットやスマートスピーカーをはじめとした、あらゆるもの(デバイス)がインターネットに接続されていく考え方です。後者のクラウド化は、あらゆる情報がデジタル化されることで、物理的な制約を気にすることなく情報の保存や活用がどこでも自由にできる状態を指します。

 「デバイスの多様化」と「クラウド化」の発想を土台に、例えば「電話というデバイスを自由に持ち運べる=携帯電話」という従来の意味での「機械のモバイル化」ではなく、「個々のデバイスに縛られないで、どこでも人間が知的体験を得られる」という「経験のモバイル化」が重要になるとナデラは考えました。そして、そのような社会の本格的な到来に向けて自社の製品を売り込んで成長しても、業界で力を得ていくことには価値が薄いと判断しました。

 それよりもユーザーのパソコンがマイクロソフトのWindowsか米アップルのMacかに関係なく、世の中で暮らすすべての企業や個人が力を得られる製品を作ることがマイクロソフトの存在意義であると定義しました。このように、社会や業界の動向を踏まえながら自社の存在意義を再定義することで、どのような立ち位置で新しい価値創造に取り組むのかを明らかにできます。

ライバルに力を与える、戦略と文化と仕組みの一貫性

 次に必要なことは、実際に価値ある事業を推進するための一貫した戦略構築です。マイクロソフトの旧来の戦略は、ライバルを徹底的に打ち負かすことに主眼が置かれていました。しかしナデラの戦略的な焦点は、ライバルやテクノロジー業界を含めた、社会全体に対してどうやってマイクロソフトが貢献していくのかにあります。そして、人々に力を与える存在になるためにアップルや米アマゾン・ドット・コムといった、ライバルとの積極的なパートナーシップ構築を重要な手段としました。

 例えば、創業時からライバルであったアップルのプラットフォーム上で積極的に自社製品を利用できるようにしたり、イベントでCEOのナデラ自身がiPhoneを使ったりしています。ほかにも、音声アシスタントの領域でアマゾンの「アレクサ」と連携するなど、さまざまな形でコラボレーションを進めています。

 マイクロソフトは公言していませんが、ナデラの発言や彼らの行動を踏まえると「ライバルに力を与える」ことが彼らの主要な戦略の1つと言えます。例えば、「iPad ProでOffice 365をうまく使えるようにしたい」とアップルから相談があったときに、ナデラは「アップル向けの製品を開発するリーダー会社として、その地位をいっそう強固にできる機会になるだろう」と考えました。つまり長年のライバルであるアップルに対し、マイクロソフトこそが最も貢献できる会社になると言うのです。

 ライバルに力を与えるという発想は本連載の第2回で紹介した、効果的な戦略に必要な3つの要件(ビジョン、制約、意思決定基準)を満たしています。例えば「経験のモバイル化」という壮大なビジョンを達成するために、ライバルとのコラボレーション(彼らに力を与えること)を明確にしました。そうしたビジョンの実現は、自社の力だけでは不可能(制約条件)であることを考慮しています。そして 「ライバルをつぶせるか」ではなく「ライバルに力を与えられるか」を事業の意思決定基準にしています。

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 一方で、マイクロソフトのような戦略を掲げたとしても、社内の文化や仕組みがコラボレーションに否定的なものになっていれば、うまく機能しません。例えば、自社の中に「市場とは戦場である」「ライバルを打ちのめし、勝つことがすべて」という強い文化があれば、ライバルの業績を高める事業を提案しようものなら、社内の関係者からすぐに非難・批判をあびることでしょう。

 次回はデザイン思考の活用(マイクロレベル)について、マイクロソフトの事例をさらに追究します。


参考文献
■修正履歴
当初のタイトルでナデラCEOの名前が間違っていました。現在は修正済みです。[2022/1/28 15:05]
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