2022年に『女人入眼』(中央公論新社)が直木賞候補となり、今最も注目を集める時代小説作家の一人、永井紗耶子氏。新著『木挽町のあだ討ち』(新潮社)は、歌舞伎の芝居小屋・森田座を主な舞台に、とある「あだ討ち」事件の真相を目撃者たちの証言を基に解き明かしていく、ミステリー仕立ての一作だ。芝居の人気ジャンルでもある、あだ討ちという古風なテーマにどのように切り込んだのか。現代のエンタメの中で、時代小説の強みとは何か。執筆の背景を聞いた。

永井紗耶子氏
涼やかな和装で取材に応じた永井紗耶子氏。作品のカギとなる歌舞伎の芝居小屋は「様々な出自のフリーランスたちが集う、江戸のクリエーティブ空間だった」と語る
作家 永井紗耶子 氏
ながい・さやこ。1977年、神奈川県出身。慶応義塾大学文学部卒。新聞記者を経て、フリーランスライターとなり、新聞、雑誌などで幅広く活躍。2010年、「絡繰り心中」で小学館文庫小説賞を受賞し、デビュー。20年に『商う狼 江戸商人 杉本茂十郎』(新潮社)で細谷正充賞、本屋が選ぶ時代小説大賞、新田次郎文学賞を受賞。22年、『女人入眼』(中央公論新社)が第167回直木賞の候補作に。他近著に『とわの文様』(KADOKAWA)など
永井紗耶子『木挽町のあだ討ち』(新潮社)、23年1月発売
永井紗耶子『木挽町のあだ討ち』(新潮社)
23年1月発売。 江戸の芝居小屋・森田座の立つ木挽町の裏通りで雪の夜、1人の美少年が父親の仇である下男を斬り、見事な「あだ討ち」を果たす。2年後、事件の顛末を調べるため、ある若侍が森田座を訪れ、芝居小屋の証言者たちの話の中から、意外な真相が浮かび上がってくる──

現代の作家たちが手掛けた歌舞伎の衝撃

――新著『木挽町のあだ討ち』は江戸時代の文化・文政年間、「江戸三座」と呼ばれた歌舞伎の芝居小屋の一つである森田座を舞台にした、ミステリー仕立ての時代小説です。「芝居小屋」に着目したのはなぜですか?

 実は今まで書いてきた小説の中にも、歌舞伎や芝居小屋の場面を入れることは多かったんです。武士など男性の登場人物がたくさん出てくる時代小説は堅苦しい雰囲気になりがちで、お芝居のような華やかな要素を加えたかったからでもありますが、何より私自身がお芝居の世界が好きなんです(笑)。それに気付いた担当編集者から、「いっそのことお芝居の話を書きませんか?」と提案を受け、本作の執筆へとつながりました。

――歌舞伎に興味を抱いたきっかけは?

 初めて歌舞伎の世界を知ったのは、小学2年生のときです。親戚に連れられ、スーパー歌舞伎の『ヤマトタケル』を見て、物語やショーアップされた演出のスペクタクルに圧倒されました。そのときに感じた、舞台上のきらきらとした世界への憧れがずっと原風景にあったのだと思います。その後、中学生時代に友人の影響で下北沢などの小劇場に通うようになり、演劇全般に傾倒していきました。

 中でも特に好きだったのは、劇作家・演出家の野田秀樹さんの演劇作品。歌舞伎への熱が再燃したのも、社会人1年目の2005年に野田さんが故・中村勘三郎さんと組んで上演した新作歌舞伎『野田版 研辰(とぎたつ)の討たれ』を見たのがきっかけです。新しい感覚で再解釈された脚色、ダンスや軽快な立ち回りを盛り込んだライブ感のある歌舞伎に衝撃を受けました。古典芸能としての歌舞伎のイメージが良い意味で覆され、古典と同時に、中島かずきさん、宮藤官九郎さん、串田和美さんなど、当代の劇作家が取り組む新作歌舞伎も見るようになりました。こうした作品から受けた影響は、今の自分の作風にもつながっています。

――『木挽町のあだ討ち』の芝居小屋の描写には、歌舞伎や演劇を見てきた永井さん自身の経験が生かされているのですね。

 「こんぴらさん」として知られる香川県の金刀比羅宮の門前に、日本に現存する最古の芝居小屋・金丸座があります。小説家としてデビューしてすぐの頃、エンタメ誌の松本幸四郎(当時は市川染五郎)さんの連載で、初心者向けに歌舞伎の醍醐味を指南してもらう企画をライターとして担当していたのですが、その最終回のテーマが金丸座で上演される「こんぴら歌舞伎」でした。取材時に実際に客席に座ってお芝居を見て、舞台と客席の距離の近さ、臨場感に圧倒されました。舞台裏の楽屋や、奈落など江戸時代のまま保存された地下の舞台機構も見せてもらった。そのときに感じた客席の空気感やからくりの見事さが忘れられず、いつか芝居小屋の世界を描きたいという気持ちもありました。

香川県・琴平町の旧金毘羅大芝居(通称・金丸座)。江戸時代の天保6年(1835年)に建てられた芝居小屋を当時の機構を残して改修保存している(写真:tomo/PIXTA)
香川県・琴平町の旧金毘羅大芝居(通称・金丸座)。江戸時代の天保6(1835)年に建てられた芝居小屋を当時の機構を残して改修保存している(写真:tomo/PIXTA)

身分制度は「親ガチャ」? 江戸と現代をつなぐ工夫

――永井さんの小説は、今と異なる時代を描きながら、読者がどこかで現代の自分と重ね合わせることができる視点があるのが魅力です。芝居小屋の世界を描くうえで、本作の時代背景を文化・文政年間(1804~30年)としたのには、どのような意図がありますか?

 文化・文政の頃というのは、読者が最もイメージしやすい「江戸時代」なんです。当時は天明の大飢饉(1782~88年)を乗り越えて経済も活発化し、歌舞伎や人形浄瑠璃、浮世絵などの町人文化が栄えました。いわゆる「花のお江戸」を体現した時代なので、歴史の知識があまりない読者でも物語世界に入り込みやすいと考えました。

 また、当時は表向きには華やかな時代だった一方で、出自・身分によって人生が大きく左右され、貧富の格差もあった。現代で言う「親ガチャ」的な生きづらさや、幕末へと向かっていく不穏な予兆も見られ、どこか空虚さや停滞感も感じさせる時代なんです。そうした時代の空気感は、現代の読者にとっても共感を得やすいのではないかと。

――特に若者世代では小説の読者は減少傾向です。ハードルが高いと感じられがちな時代小説を様々な世代の読者が読みやすくするために、どのような工夫をしていますか?

 時代小説というジャンルは、現代を舞台にした小説と比べると、歴史背景や当時の社会背景、文化・風俗の説明など、どうしても情報量が多くなります。私自身、これまでにも小説を刊行するたびに知人に薦めてきたのですが、歴史にあまり親しみのない人からすると「読むのが大変」と、「積ん読」で終わってしまうことも多く……。そのハードルを少しでも下げるために、スムーズに情報を伝えつつ物語に引き込む展開を意識しています。

 例えば本作では、歌舞伎や芝居小屋についての知識がない読者でも入り込みやすいよう、物語の「聞き手」を町人文化に疎い若侍に設定しました。小説の冒頭は、森田座のすぐそばで起きたあだ討ち事件の聞き込みのため、人生で初めて芝居町にやってきた若侍が、木戸芸者(芝居小屋の門前で客の呼び込みを行う芸人)から事件のあらましや森田座についての説明を聞くところから始まります。話術に達者な木戸芸者の語りによって、読者も自然に芝居小屋の世界に踏み込んでいける。一人称視点のRPGのような仕掛けですね(笑)。

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