人気作家・山田詠美氏が、22年11月に自身の半生を描いた自伝小説『私のことだま漂流記』(講談社)を刊行した。文学少女だった幼少期から、挫折を経験した学生漫画家時代、小説家デビュー、黒人男性との結婚と離婚、様々なバッシングにもさらされた波乱のキャリアを描く。多くの出会いを通じ、小説とは、小説家とは何か、40年近くにわたり第一線を走り続ける作家の原動力とは何かを、率直な語りで伝える内容だ。

小説家 山田詠美 氏
やまだ・えいみ。1959年、東京生まれ。明治大学文学部中退。85年に『ベッドタイムアイズ』で文藝賞、87年に『ソウル・ミュージック・ラバーズ・オンリー』で直木賞、89年『風葬の教室』で平林たい子文学賞、91年『トラッシュ』で女流文学賞、96年『アニマル・ロジック』で泉鏡花文学賞、2000年『A2Z』で読売文学賞、05年『風味絶佳』で谷崎潤一郎賞を受賞。近著に『つみびと』(中央公論新社)、『血も涙もある』(新潮社)など
山田詠美『私のことだま漂流記』(講談社) 2022年11月発売
山田詠美『私のことだま漂流記』(講談社)
2022年11月発売

小説とは「根も葉もある嘘八百」

――改めて自伝小説執筆のきっかけを教えてください。

 小説とは「根も葉もある嘘八百」というのは佐藤春夫の言葉です。確かに、小説は虚構の世界ではあるけれど、私が生きてきた本物の時間が根となって葉を繁らせ、小説を書いてきたのだということを書き残しておこうと思ったんです。

 本書を連載していたのは「毎日新聞」の日曜版。私が大学生だった約40年近く前、この同じ連載枠では宇野千代先生が自伝小説『生きて行く私』を連載していました。当時の私は漫画家を目指していましたが、鳴かず飛ばずで、日々の糧を得るための水商売のアルバイトが生活の中心になり、将来の展望が見えなくなっていた時期でした。そんな中、この連載で当時84歳だった宇野先生の生き方に触れ、師と仰ぐようになった。同じ枠で連載のお話を頂いたときはうれしかったですね。

宇野千代『生きて行く私』(KADOKAWA) 明治から平成まで、4時代を恋愛に仕事に奔放に生きた作家の80年記
宇野千代『生きて行く私』(KADOKAWA)
明治から平成まで4時代を、恋愛に仕事に奔放に生きた作家の80年記

 私には宇野千代先生のように人を導く力はありませんが、小説家になりたいと思っている人や、小説が好きな人、小説家とはどのような人たちなんだろうと思っている人に向けて、同じくその1人だったかつての私が「こういう本を読みたかった!」と思えるものを書けたと思います。

――作家デビューは1985年の『ベッドタイムアイズ』ですが、宇野千代氏にはこの最初の小説を書くにあたっても、大きな影響を受けたそうですね。

 当時、漠然と小説を書き始めたはいいものの、なまじ小さい頃からの「本読み」で目が肥えていたために、自分が書いたものが下手すぎて耐えられなかった。数行書いては捨てることを繰り返していました。書き手の自分による書き出しの数行を、読み手の自分がどうしても許すことができなかったわけです。

 ちょうどその頃、宇野先生が雑誌に連載していた文章作法に関するエッセイの切り抜きを読み返したんです。そこには「間違っても、巧いことを書いてやろう、とか、人の度肝を抜くようなことを書いてやろう、とか、これまでに、誰も書かなかった、新しいことを書いてやろう、とか、決して思ってはなりません」と書かれていた。

 これを読んで、自分には小説を書く資格はないと落ち込みました。当時の私には、賞を取って評価されたいとか、チヤホヤされたいとか、本が売れてお金が入ってきたらいいなという姑息(こそく)な欲があったからです。今にして思うと、小説家を目指すにあたり、最初にそれを自覚して落ち込む経験は大事だったと思います。

 そこで一度きっぱりと書くのをやめ、その後何カ月かがたってデビュー作の最初の1行が浮かんできたときには、「私は小説家になりたいんじゃない、小説を書きたいんだ」「落選しても、また次の小説を書いて応募すればいい」と、もう欲はすべて消え、ただ一心に書き上げることができた。これが小説家としての本当のスタート地点だったと思います。

『ベッド タイム アイズ・指の戯れ・ジェシーの背骨』(新潮社) デビュー作『ベッドタイムアイズ』では、米軍基地からの脱走兵とクラブ歌手との恋愛を描いた
『ベッド タイム アイズ・指の戯れ・ジェシーの背骨』(新潮社)
デビュー作『ベッドタイムアイズ』では、米軍基地からの脱走兵とクラブ歌手との恋愛を描いた

――1行目をどのように書き出すかは、小説家にとって大事なことなのですね。

 小説家の中には、1行目を軽く書いてしまう人も多いですね。一方で、軽く書いたように見せかけて、考え抜かれた達人の1行目もある。本読みだからこそ、その違いはよく分かります。だから、自分の書く1行目にも厳しいのです。

 小説をパソコンで書く人は、画面上で書いたり消したりしながら推敲(すいこう)をすると思いますが、私はずっと手書きです。これは、自分が鍛えてきた小説の運動神経のような部分に関わるので、今後も執筆方法を変えるのは無理でしょうね。

 手書きだと気軽に修正はできないので、間違えないよう頭の中で言葉がしっかりと決まってから書き始める。なので、いざ書き始めるまでが長く、その期間ははたから見れば何もしていないように見えるかもしれません(笑)。けれど、最初の1行がしっかりと浮かんだときには、これで書き上げられるという確信が自分の内側にあり、その後はコンスタントに書き続けていける。

 1行目の時点で、小説の全体像が必ずしもはっきりと見えているわけではありません。けれど、書き進めていく中で行き先が見えてきて、ついに最後の1行にたどり着いたときに、「だから私はあのような1行目を書いたのだ」と、自分の内側にあったものを理解できる瞬間が訪れる。小説家の中には書くことが楽しくて仕方がないと公言する人もいますが、私はどちらかというと苦痛が大半。でも、そんなふうに最後の1行にたどり着けた瞬間には、得難いものがあります。だからこそ、最初の1行目というのは本当に大切なんです。

――本書には幼い頃から本に引きつけられ、「本読み」へと育っていったエピソードもつづられています。10代で多くの本を読むことは、小説家になるために必須の条件でしょうか。

 スポーツ選手などもそうですが、プロになる人って子供の頃からトレーニングをしますよね。小説も同じです。やはり、プロの書き手になるためには、まだ柔らかい10代の脳味噌に、グサっと突き刺さるような読書経験が必要なんです。その頃に刺さった言葉や感覚は、永遠に忘れませんから。作家の半村良さんは「作者は読者のなれの果て」だと仰ったそうですが、本当にその通りだと思います。

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