臨床心理士として、現代人の心の問題と向き合ってきた東畑開人氏。2022年3月刊行の新著『なんでも見つかる夜に、こころだけが見つからない』(新潮社)が既に4刷となるなど注目を集めている。1990年代の心理学ブームが去って約20年あまり、仕事や家族の問題、孤独感、社会との折り合い方の難しさなど、時代の変化の中でさらに複雑になった「心の問題」に正面から取り組む内容だ。

東畑氏は現代は「なんでも見つかるけれど、どれを選べばいいか分からない。そんな、自由だけれど先が見えない『夜の航海』時代」だという
東畑氏は現代を「なんでも見つかるけれど、どれを選べばいいか分からない。自由だけれど先が見えない『夜の航海』時代」だという
臨床心理士 東畑 開人 氏
とうはた・かいと。1983年生まれ。専門は臨床心理学・精神分析・医療人類学。京都大学大学院教育学研究科博士後期課程修了。精神科クリニックでの勤務、十文字学園女子大学准教授を経て、現在は白金高輪カウンセリングルームを主宰。2019年に『居るのはつらいよ』(医学書院)で第19回大佛次郎論壇賞を受賞
東畑開人『なんでも見つかる夜に、心だけが見つからない』(新潮社)、2022年3月発売
東畑開人『なんでも見つかる夜に、こころだけが見つからない』(新潮社)、2022年3月発売

──仕事や家庭、パートナーとの関係など、誰もが抱く身近な悩みへの向き合い方を、夜の海に小舟で漕(こ)ぎ出す航海に例えながらひも解く、「読むセラピー」として話題の本書。印象的なタイトルに込められた、執筆の動機を教えてください。

 今はまさに「なんでも見つかる」時代です。「多様性」という言葉に象徴されるように、個人が生き方に無限の選択肢を持った時代といえます。それは言い換えれば、一人ひとりが決まった地図のない、誰も道筋を教えてくれない自己責任の「自由」の中で選択肢と向き合い、キャリアを築いたり人との関係性を結んだりしていかなければならない、過酷な時代になったということでもあります。

 ひと昔前は、多くの選択肢があることは豊かさの表れでした。しかし今は、ネットを探せばそれこそ無数に選択肢は見つかるけれど、豊かさというよりもリスクばかりを感じてしまうのではないでしょうか。なんでも見つかるけれど、どれを選べばいいか分からない。そんな、自由だけれど先が見えない「夜の航海」時代の、心の本を書きたいと思ったんです。

 読者からは、「読んで寂しくなった」「孤独を感じた」といった反応もありました。本書を通じて、自分の寂しさや悲しさに気付いたと。そうした感情と向き合い、受け入れるのはつらいですが、心にとっては大事なことでもある。コロナ禍以降、より孤独になりやすくなっている世の中で、多くの人がそれを実感しているのではないでしょうか。

「心」はいつのまにか、やっかいなものになっていた

──タイトルの後半は「こころだけが見つからない」と続きますが、東畑さんは前著『心はどこへ消えた?』(文藝春秋)でも、90年代の心理学ブームが去った後、個人の心の問題に対する社会の関心の変化を指摘していました。

 90年代というのは、人々の関心が自己の内側へと向かっていた時代でした。例えば、当時に書かれたものも含め、村上春樹さんの小説にはよく井戸が出てきますが、彼は自身の創作活動についても、自分の深層には未知の豊かなものが沈殿していて、その「井戸」の底へと潜ることで物語世界を引っ張り出してくるのだと捉えていました。同じように、社会全体でも、心の深層に関心を向けることで、まだ見ぬ豊かな世界に触れられる、知らない自分に出会えるといったポジティブなムードがありました。

 しかし、社会から豊かさが失われていくのと並行して、人々の関心はむしろ、厳しい社会の現状に対して自己をいかにアジャストしていくかという方向へと変化しました。深層を探求するよりも、表層をきちんと整えること。心の問題についても、「心とはちゃんとマネジメントしておかないと、人生に悪影響をもたらすやっかいなもの」という風潮が強まり、心理学とは自己をコントロールするための手段だという考え方が広がっていきました。もちろん、コントロールすることも大事です。しかし、コントロールばかりを重視すると、心が窒息してしまうこともある。

東畑開人『心はどこへ消えた?』(文藝春秋)
東畑開人『心はどこへ消えた?』(文藝春秋)

──本書は、そのように厳しさを増す社会の中で、複雑な心の問題を見つめ直すカウンセリングの過程を、作中に出てくる架空の人物たちの物語を通じて疑似体験できる構成を取っています。相談者の心の問題に耳を傾け、見つめ直す手助けをするカウンセリングとは、生きていくための物語を共に作っていく作業だと言えるでしょうか。

 微妙なニュアンスになりますが、カウンセリングとは「心に本当のところ、どんな物語があったのか」を理解する時間です。全く新しい何かをでっち上げるものではないんですね。心には複数の物語が同時に存在している。だから今、自分で意識している物語とは別のものが自分の中に存在していると気付くことには意味があります。

 例えば、過去の経験から「結局、俺はいつも人から裏切られて終わるんだ」というストーリーを信じて生きている人がいる。裏切られたと思うたびに「まただ」と傷付き、関係を切ってきたかもしれません。でも、心にはまた別のストーリーもある。相手に分かってほしい、という思いがそこにはあるかもしれない。その気持ちに気付くと、関係を切る決断をするまでに10秒待つ、あるいは1週間待つことができるかもしれない。このちょっとした時間が、本当は相手から完全に裏切られたわけではなかったと気付かせてくれる。心の中の小さな声が、行動に小さな変化を引き起こし、それが人生全体をじわじわと変えてくれる。そういう営みだと思うんですね。

カウンセリングは「読まれない物語」に耳を傾ける仕事

──心を取り扱う分野には、心理学以外にも宗教や文学など歴史的に様々なジャンルがありますが、その中でカウンセリングの立ち位置、よって立つ価値は何だと思いますか?

 宗教や文学は親戚です。4代くらい遡れば祖先は同じだと思っています(笑)。宗教が「神」というスケールの大きな物語によって人の心を救済するのに対して、カウンセリングはもっと人間的なサイズの、市井の人々の物語に関わる仕事だと思います。また、文学が人に読まれることを目的として書かれた物語であるのに対し、カウンセリングでは「みんなに読まれない物語」が問題になります。ツイートすることのできない、自分のノートに書くしかない話って、人にはありますよね。そういう「裏話」を扱うためにある仕事なんです。

 資本主義の社会というのは、基本的に「悲しみ」のモードがない。どんどん変化しよう、成長しようという前向きさを前提につくられています。しかし、その中で生きている人間の人生には、喪失に苦しんだり、現実に幻滅したりする局面が必ずある。そういう資本主義からこぼれ落ちたものに取り組む専門家として、僕らはいるのだと思います。

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