2021年6月に発売した漫画『ぼくのお父さん』(新潮社)が15万部超のヒットとなっている芸人・漫画家の矢部太郎氏。父である絵本作家・やべみつのり氏との幼少期を描く本作。バブル直前の時代の東京郊外を舞台に、家で毎日ひたすら絵を描き、子供たちと遊び暮らす風変わりな父の姿を、優しいタッチと絶妙な距離感で切り取り、読み手の心をつかんでいる。矢部氏に執筆の背景を聞いた。

矢部太郎氏
父のやべみつのり氏による育児絵日記を手がかりに描かれた『ぼくのお父さん』。子供時代の記憶のパートは淡い色彩でカラー作画されている
芸人・漫画家 矢部 太郎 氏
やべ・たろう。1997年にお笑いコンビ「カラテカ」を結成。テレビ、舞台、映画などで俳優としても活躍。『大家さんと僕』(新潮社)で第22回手塚治虫文化賞短編賞を受賞。2021年秋より「モーニング」(講談社)で「楽屋のトナくん」を連載中
矢部太郎『ぼくのお父さん』(新潮社)、21年6月発売
矢部太郎『ぼくのお父さん』(新潮社)、2021年6月発売

──累計120万部超となった『大家さんと僕』シリーズに続き、絵本作家の「お父さん」と過ごした幼少期を描く本作も、既に15万部超となっています。作者として、ヒットの理由をどのように捉えていますか?

 内容がどう読者に受けたかというのは、自分ではあまり分からないんです。ただ、少し前に精神科の病院で働く医療従事者の方からTwitterでメッセージを頂いたことがあって、それをよく覚えています。その精神科病棟の待合室には、先生が「患者さんが読んでもいい本」を厳選して置いているのですが、その結果、棚にあるのは『大家さんと僕』とネコの写真集だけなんだそうです。それを聞いて、ネコの写真集と同じくらい優しく読める漫画だと認めてもらえたんだって思いました(笑)。

 『ぼくのお父さん』もそんなふうに、どんなときでも読める作品になっていたらいいと思います。本作には、庄司智春(品川庄司)さんがこんな感想をくれたんです。「読んでいて自分の子供の頃を思い出した。それに、今は自分も父親だから、こんなお父さんに俺もなりたいな」って。うれしかったですね。

矢部太郎『大家さんと僕』シリーズ(新潮社)
大ヒットとなった『大家さんと僕』シリーズ(新潮社)。一軒家の2階に間借りするお笑い芸人の「僕」(矢部氏)と、1階に暮らす高齢の大家さんとの交流を描く

「強さで尊敬されようという考えが、父にはなかった」

──作中では突飛な言動の多いお父さんですが、「泣いちゃだめよ。男の子でしょ」と叱られる子供を見て「男の子も泣きたいよねぇ」とつぶやく、優しくやわらかい言葉も印象的です。

 父には「強くあることで誰かに尊敬されよう」という考えが全くなかったように思います。子供たちの前でも、大人に対しても、気にせずに自分の弱さを出していた。逆に言えば、そういう面が、父の強さだったのかもしれません。

──自分の弱さを認められる強さ、ということですね。

 そう言うと「ちょっといいこと言った」みたいな感じになりますけど(笑)。ああしろこうしろと、特に何かを押し付けられたこともなかったです。「お父さんみたいになれ!」とか言われたこともなかった。むしろ「お父さんみたいにならない方がいいよ!」という人だったので楽でした。そういう価値観に、救われた部分はあるかもしれないですね。

矢部太郎『ぼくのお父さん』93ページより
矢部太郎『ぼくのお父さん』93ページより

──受け取り方を押し付けないという点では、矢部さんの作風にも通じます。

 それは、僕には特に言いたい意見がないのだというのが大きいです(笑)。本当にないから、描かないんです。『ぼくのお父さん』は、子供の頃の僕なら、この父の言動をどんなふうに見ていただろうかと、俯瞰(ふかん)的な目線から描きました。これくらいの距離感の漫画が好きですね。それこそ、病気で弱っているときにも読めるようなトーン。あまりに文字が多かったりすると、疲れてしまう。

「変わり者のお父さんと常識人の僕」にはしたくなかった

──『ぼくのお父さん』で描かれるエピソードの原案になったのは、「お父さん」=絵本作家のやべみつのり氏が、矢部さんの幼少期を記録して描かれた育児絵日記「たろうノート」だそうですね。

 ブログに育児日記を書く人はいますが、肉筆でノートに成長記録を残すなんて、今の人はあまりしませんよね。「たろうノート」を開くと、字が楽しそう、絵が楽しそうなんです。逆に、落ち込んでいるときに描いたページも、字や絵を見ると何となくそれが伝わってくる。

 絵日記の内容はとても細かく描き込んであり、作品として発表するかどうかはさておき、父は真剣に描いていたと思います。僕自身は子供時代のことって、そんなにはっきり覚えているタイプではないのですが、「このノートがあれば作品が描ける!」と思いました。

 当初は、父の描いた当時の絵日記に対して、大人になった現在の僕がツッコミを入れていく構成にしようかなと考えていた。いいアイデアだと思ったのですが、そういう描き方をすると、「変わり者のお父さんにツッコミを入れる常識人の僕」みたいな構図になってしまうだろうなと思い、今の形になりました。

──作品化するに当たって重視したポイントはありますか?

 本書について、編集者さんと「お父さんのことを描きましょう」という話になったとき、「家族の話には普遍性があるから」と言われました。でも、「僕のお父さんは変なお父さんだから、普遍性なんてあるかな?」と、そのときは思っていました。

 父が描いた育児絵日記のうち、僕のことだけを描いた「たろうノート」は実はたったの3冊で、残りの38冊は僕のお姉ちゃんについて描かれています(笑)。でも、その姉についてのノートを見ているうちに、「みんなそうなんだよな」と気がついた。姉にも誰にでも同じように、親との特別な子供の時間がある。家族が普遍的だというのは、そういうことですよね。

 姉のノートを読み進めていくと、途中で僕が出てきます。「誕生」というのは人間にとって最も普遍性があると言ってもいいことだけれど、同時に特別でもある。庄司さんのように親になった人も、ならなかった人も、どんな人もみな「生まれた」ことがある。ノートを読んでいてそのことに気がついたんです。だから、読んだ人にも自分の記憶を重ねてたどってもらえるよう、そのままを描こうと思いました。

──ノートから意外な発見はありましたか?

 漫画には描かなかったのですが、保育園の発表会を見に来た父が、客席で絵を描いていたことがありました。てっきり僕の絵を描いてくれているのかと思っていたのですが、当時のノートを見直してみると、「参観に来たお母さん方が号泣していて面白かった」と、保護者たちが子供の晴れ姿を見て泣いている、ぐしゃぐしゃの顔の絵ばかり描かれているんです。僕が「父が自分の絵を描いてくれている」と捉えていたあの日の出来事は、父にとっては全くそうではなかったんだなという発見があって、面白かったですね。

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