英国南東部の町・ブライトンで、現地中学に通う息子の身の回りの出来事や親子の対話を通じ、英国社会や人間の普遍的問題を描いて60万部のベストセラーとなった『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』。発売から2年後の2021年6月に刊行された『他者の靴を履く アナーキック・エンパシーのすすめ』は、前作の大反響のもととなったキーワード「エンパシー(他人の感情や経験などを理解する能力)」について、さらに考察を深めた「大人のための続編」だという。著者のブレイディみかこ氏に、執筆の背景を聞いた。

ライター・コラムニスト ブレイディみかこ氏
1965年、福岡市生まれ。英国・ブライトン在住。2017年に『子どもたちの階級闘争 ブロークン・ブリテンの無料託児所から』(みすず書房)で新潮ドキュメント賞受賞。本屋大賞2019 ノンフィクション本大賞、毎日出版文化賞・特別賞などを受賞した『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』(新潮社)他著書多数
ブレイディみかこ『他者の靴を履く アナーキック・エンパシーのすすめ』(文藝春秋) 2021年6月25日発売
ブレイディみかこ『他者の靴を履く アナーキック・エンパシーのすすめ』(文藝春秋) 2021年6月25日発売

──『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』は、ノンフィクションとしては異例とも言える60万部のヒット本になり、コロナ禍でも版を重ねました。これだけ多くの人に読まれた理由の一つには、身の回りや学校での出来事など、身近な生活者の目線から社会問題を見る、ブレイディさんの語り口があったと思います。ミクロからマクロを描く、このような視点の持ち方はどのようにして得られたのですか。

 私が初めて渡英したのは高校卒業後の1980年ごろでした。その後、永住するようになったのは96年以降で、当時はロンドンにある日系新聞社の駐在員事務所でアルバイトをしていました。結婚してからフルタイムで働くようになったのも、また別の新聞社の駐在員事務所です。

 新聞社の事務所で働きながら、日本人の特派員記者たちが、どんなふうに取材をして記事を書いているのか、毎日何をしているのかを見ていたんです。記者たちは大抵、大学の先生や有名なジャーナリストなど、そうした「識者」と呼ばれる人たちに話を聞きに行って記事を書きます。記者の仕事が忙しいからでもありますが、地元のコミュニティーに根を張って交流したり、学校で子供の保護者たちと話をしたりする機会もほとんどない。つまり、日本で紹介されている記事には、そういう生活者レベルの「地べたからの視点」が全く反映されていないわけです。それだとすごく偏った報道になってしまうんじゃないかなと思っていました。

 当時はライター志望でもなかったし、自分が何かを書くことになるとは思ってもいませんでした。でも、政治が大きく変わるとき、最も影響が出るのは末端の生活だということは分かっていました。例えば、町に必要だった託児所が潰れたとします。なぜ潰れたのか。それは政府の財政政策が変わり、それに問題があるからだということを、誰かがはっきりと身近な視点から示さなければならない。

 そうした因果関係の理解の回路が切れてしまうと、生活が苦しくなってきたときに、何もかもが自分たちの自己責任であるかのように錯覚してしまったりする。今の日本が、まさにそういう傾向にあるのではないでしょうか。そうではなく、「それは政府の緊縮財政のせいだ」「経済政策が間違っていたせいで、こんな不況になったんだ」と、ミクロとマクロの間で切れた回路を、もう一度つないでいかなければならないと。

 英国のコラムニストで、ジュリー・バーチルという人がいます。彼女の書く記事は、まさに螺旋階段を下から上へと上っていくように物事を分かりやすく書くので、90年代から2000年代に一世を風靡し、高級紙(クオリティー・ペーパー)がこぞって彼女の獲得合戦をしたほどでした。例えば、自分が隣の家の老人とけんかをした話から始めて、それを年金システムの問題につなげていくといった書き方をする。私もそんなふうに個人の暮らしから政治へと思考回路をつなげるものを書きたいと思ったんです。

「エンパシー」への大反響は予想外だった

──6月に刊行された新著『他者の靴を履く アナーキック・エンパシーのすすめ』は、『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』の中に登場した、とある一場面への、予想外の反響の大きさを受けて書かれたとか。

 息子に「学校の試験でどんな問題が出たの?」と尋ねる場面です。テストに出題されたのは、「エンパシー(empathy)とは何か?」という問題。息子が出した答えは「誰かの靴を履いてみること(To put yourself in someone’s shoes)」というものでした。

 英語圏では「エンパシー」は、そんなふうに学校のテストにも出されるくらい、「多様性(diversity)」と同様に割ともてはやされたキーワードだったんです。オバマ元米大統領が多く用いた言葉としても知られています。ただし、日本に入ってくる段階で、エンパシーは一様に「共感」という言葉に翻訳されるせいで、「シンパシー(sympathy)」と区別が付かなくなってしまっていた。

 シンパシーというのは、自分に近い感覚を持つ相手に対し、感情とともに内側から自然に湧いてくる同情のことです。一方でエンパシーとは、湧き上がる感情に判断力を曇らせることなく、意見や関心の合わない他者であっても、その人の感情や経験などを理解しようと、自発的に習得する「能力」のことなんです。そこにははっきりとした区別がある。つまり、「エンパシーとは何か?」という問題に、「誰かの靴を履いてみること」と書いた息子の答えは的を射ていたわけです。本の中でこのことを書いた部分が、意外にも注目を集めました。

 学校の期末テストにまつわる、ちょっとしたお茶の間の会話を描いたこの場面は、約250ページの本の中のたった4ページにすぎません。にもかかわらず発売後、ここが最も印象に残ったという感想を本当に驚くほどたくさん頂いたんです。取材でもいつもエンパシーについて尋ねられ、書評を見ても、ほとんどがエンパシーについて書かれている。そのうちに、こちらもプロモーショントークとして、「これはエンパシーについて書いた本です」などと言い始めた(笑)。でも、執筆している時点ではそんなつもりは全く無かった。

 作者の意図を超えて「エンパシーは素晴らしいものだ」と、まるで現代のあらゆる問題を解決できる万能薬のように扱われてしまったことに、危惧もありました。実際は、エンパシーについては長く積み上げられてきた深い議論があり、使い方次第では害にもなると警告を発している論者もいるほど、多面的な考察がなされてきた概念なんです。それを、たった4ページで限られたポイントだけ広く紹介してしまった人間として、責任を取って、もっと掘り下げた紹介をすべきではないかと思い、この『他者の靴を履く』を執筆したんです。

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