2019年12月、診療の現場で医師が患者の体に直接当てて心音などを聴く、あの「聴診器」に200年ぶりのイノベーションがもたらされた。既存の聴診器をデジタル化し、録音、ワイヤレス化、音量調整が可能な後付け型のデジタル聴診デバイス「ネクステート」がそれだ。書籍『マーケティング視点のDX』の企業事例編からお届けする。

 DX(デジタルトランスフォーメーション)にマーケターが積極的に関与し推進する必要性を説く書籍『マーケティング視点のDX』(江端浩人著、日経BP、2020年10月19日発売)。本連載はその連動企画として、本書の一部内容や関連情報をお届けします。

前回(第4回)はこちら

 デジタル聴診デバイス「ネクステート」を開発したのは、医療ベンチャーのシェアメディカル(東京・千代田)。同社代表取締役CEO(最高経営責任者)の峯啓真氏は、前職で患者がクチコミを投稿・閲覧できる病院検索サイト「QLife」の立ち上げに参画しました。東日本大震災を経て、臨床現場に近い医療サービスを志し、2014年に独立。翌15年に医療従事者用コミュニケーションツール「メディライン」をリリースしています。

デジタル聴診デバイス「ネクステート」。販売価格は5万円(税別)
デジタル聴診デバイス「ネクステート」。販売価格は5万円(税別)

 「今使っている聴診器をアップデートする」というコンセプトの通り、峯氏が開発したネクステートは医療機器(デジタル聴診器)ではなく、今愛用している聴診器からチェストピースを取り外して装着することでデジタル化できるデバイスです。

 ネクステートは、心音や肺音など微弱な生体音をデジタル化するのみならず、DSP(デジタル・シグナル・プロセッサー)イコライザーの搭載によって、環境音を抑制し、生体音を聴きやすく改善。聴診器で捉えた生体音を最大1000倍に拡大できます。デジタル化することで、インターネットを介した遠隔聴診にも道を開きました。

 開発のきっかけは、医師の声でした。聴診器の耳に挿入する部分「イヤーチップ」の素材には近年まで樹脂が使われていて、密閉を保つためバネの力で耳に押し当てます。「拷問器具だ」と自嘲気味に話す医師もいました。実際、小中学校の健康診断などで数百人を検診し、付けたり外したりを繰り返すと、「耳が痛くなる」といいます。

 音楽を長時間聴いても苦にならないワイヤレスヘッドホン/イヤホンで聴診できればいいのではないか……。そこで、集音した心音や呼吸音をデジタル変換し、Bluetoothを使ったワイヤレス通信で対応スピーカーやヘッドホンに送信して聴診した音を聴けるようにする規格を考えました。

 もちろん、実用に耐えうる精度の高い製品にするまでには苦労も伴いました。例えば心臓の音は10~40Hz(ヘルツ)の非常に低い周波数が中心で呼吸音などより低く、会話を集音することを前提として設計された通常のマイクでは拾いづらかったりします。非常に微弱な生体音を集音しつつ、余計なノイズが入らないように、また必要な音をノイズ扱いしてカットしないように再現する必要がありました。

 それが可能な工場を探し求めて東京・大田の中小企業を40社訪ね歩き、最終的には台湾企業とのマッチングイベントで紹介のあった音響機器のODMメーカーに行き当たりました。こうして、医師からのフィードバックを受けて改良を重ね、聴診に必要な音をハッキリと聴き取りやすい、ネクステートが完成しました。

コロナ禍で大活躍

 ネクステートの開発は早速、コロナ禍の医療現場で威力を発揮しました。病院の発熱外来には、感染の疑いがある患者がたくさん訪れるため、どんなにマスクやフェイスシールドをしても、診察する医療従事者も感染のリスクにさらされます。それが、Bluetooth無線通信機能が内蔵されているネクステートを使うことで、約10メートル離れたワイヤレス聴診が可能になりました。医師たちは防護服を着なくてもビニールカーテンやアクリルパネル越しで安全な診察が可能になり、ネクステート本体も、ビニール袋に入れたり、ラップフィルムで包んだりすることでアルコール消毒を容易にし、聴診器を介した接触感染拡大を防ぐことができます。何よりそうした医療施設の積極的な工夫は目に見えるため、患者自身の心理的安心感につながり、過剰な受診抑制を防ぐことが期待できます。

豊田地域医療センターの発熱外来では、診察にネクステートを使用
豊田地域医療センターの発熱外来では、診察にネクステートを使用

 愛知県豊田市の豊田地域医療センターでは、発熱外来を設置するに当たり、ネクステートを用いて新型コロナウイルス感染疑い患者の診察を実施しました。ネクステートを患者自身で当ててもらい、医師はビニールカーテン越しにワイヤレスヘッドホンで聴診し、問診も含めて飛沫感染リスクを抑えながらの診察を実現しました。

オンライン診療、在宅診療の実現が近づく

 Bluetoothの場合は距離にして10メートルほどのワイヤレス聴診ですが、スマホなどを接続してインターネット通信できるようにすれば、地球の裏側からでも聴診は可能になります。例えば看護師だけが患者の自宅に訪問して聴診器を当て、医師は病院に居ながらにして聴診して診察することが可能になります(D to P with N型オンライン診療)。医師不足の地方や医療過疎地、離島などにおける医療環境の効率が大きく改善することが期待できます。

「D to P with N」型オンライン診療(左)、「D to P with D」型オンライン診療(右)
「D to P with N」型オンライン診療(左)、「D to P with D」型オンライン診療(右)

 これまでのオンライン診療は問診が中心で、「テレビ電話」の域を出ませんでした。ネクステートは、聴診器を当てて施術する人と、聴診音を聴いて診断する人を分離できます。そのため、医師(D)が遠隔で看護師(N)に指示を出して患者(P)に処置する「D to P with N」型、20年度の診療報酬改定で新たに算定された「D to P with D」型のオンライン診療を可能にしました。

 X線写真のように目に見える記録があるものは、複数の医師でチェックすることで疾患の見落としを防ぐことが可能です。また近年、AI(人工知能)に学習させることで疾患の見落としを防ぐ取り組みも進んでいます。ところがこれまで、聴診については複数の医師でチェックする機会もなく、ブラックボックス化していました。心音のわずかな異常を聴き取って重大な疾患を察知するようなベテラン医師の技を共有して若手が学んでいくような機会は、なかなか持ちにくい領域でした。

 それがデジタル化によって録音が可能になったこと、さらにBluetooth接続のスピーカーを使用することで、その場にいる医師同士が自然とディスカッションするようになり、「耳」をブラッシュアップする機会が開けました。また、聴診音データをディープラーニングで解析することで、聴き落としかねないわずかな異常や、前回の聴診からの良化・悪化を経時判別する技術なども今後、進んでいくものと思われます。

 19年12月には、専門医らによって「聴診データ研究会」が設立。聴診音データの集積、解析を行う医療従事者間の知識交換を促進し、聴診データの活用拡大を目指しています。また分科会として、患者と医療従事者が時間と地域を問わず医療リソースにアクセスできる環境構築を目指す「ユビキタスヘルスケア部会」も20年2月に設立され、医療のDX促進が期待されています。

 ネクステートのビジネスは、単にハードのモノ売りにとどまらず、その性格上、データ活用ビジネスに発展していくことは確実です。5Gによる鮮明な問診と組み合わせることで、よりきめ細かい診察がオンラインでも実現しそうです。

4Pを踏まえた戦略の整理

 シェアメディカルの取り組みをDX2.0(マーケティング視点のDX)の4Pで整理します。

Problem(課題)
 医療従事者と情報交換する過程で、診察が長時間に及ぶと聴診器で耳が痛くなるとの情報を得ました。

Prediction(未来予測)
 音楽を聴くワイヤレスヘッドホン/イヤホンのような形なら長時間の聴診も苦にならないのではないか。そのためには心音や呼吸音をデジタル化して、通信できるようにする必要がある。それが可能になれば、オンライン診療で問診のみならず聴診も可能になるだろうと、診察の未来図を予測しました。

Process(改善プロセス)
 聴診音のデジタル電送は一筋縄ではいかず苦労しますが、台湾の音響機器メーカーの協力を得て、開発に成功します。不要なノイズをカットし、必要な音をノイズ扱いしないよう、細かいチューニングを重ねて完成にこぎ着けました。

People(人の関与)
 開発に際して多くの医療従事者からフィードバックをもらい、改良を重ねて完成度を高めました。聴診音をデジタル化して共有が可能になったことで、若手医師がベテラン医師から異常音の聴き取りを学び、継承する機会ができました。オンライン診療の発展で、医師不足の地方や過疎地に住む患者にとって医療体制の充実が期待できます。

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