マーケティング視点でDXを推進した代表的な企業事例として、富士フイルムの取り組みが挙げられる。デジタルカメラの台頭でフィルム市場の急速な縮小が見込まれる中、フィルム事業で培った技術の活用、応用とマーケットが求めるものを照らし合わせて事業を再構築。事業構造を大きく変えて成長を続けている。書籍『マーケティング視点のDX』の企業事例編からお届けする。

 DX(デジタルトランスフォーメーション)にマーケターが積極的に関与し推進する必要性を説く書籍『マーケティング視点のDX』(江端浩人著、日経BP、2020年10月19日発売)。本連載はその連動企画として、本書の一部内容や関連情報をお届けします。

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 富士フイルムは、富士写真フイルムという旧社名の通り21世紀に入るまでフィルム事業で成長してきた企業です。写真フィルムで培った技術を生かして、液晶の偏光板保護フィルムや医療機器、医薬品など事業を多角化し、多分野で世界トップシェアの製品を抱えています。

カラーフィルムの世界総需要推移
カラーフィルムの世界総需要推移
出所:『魂の経営』古森重隆(東洋経済新報社)p2より (2000年を100とした場合)

 フィルム事業はかつて、同社の売り上げの6割、利益の3分の2を占める屋台骨でしたが、写真フィルムの世界需要は2000年をピークに急減し、06年には半減、10年には10分の1以下にまで激減しました。

 そんな本業を喪失する危機を察知した富士フイルムは、積極的にデジタル化に踏み切ることで、事業を変容させながら成長を継続してきました。世界初のフルデジタルカメラ「FUJIX DS-1P」を開発したのも、コンシューマー向けの普及機種「FinePix」シリーズを展開したのも同社です。カメラのデジタル化を進めるほどフィルム市場の縮小は早まりますが、デジタル化は不可避と考え、自らデジタル領域に乗り込んでいったのです。

 フィルム市場もまだ成長している時期にこの決断を下すのは容易なことではありません。富士フイルムと壮絶なシェア争いをしていた世界トップのフィルムメーカー、米コダックは、デジタル化の変化に対応できず、破産することになりました。もちろんコダックもデジタル化の波は予見していましたが、デジタル化を進めればフィルムが縮小する“カニバリ”懸念から、次世代を担う事業への投資に踏み切れず、それが致命傷になりました。

 フィルムに代わる新しい市場、新しい成長戦略をどのように描いていくか。富士フイルムは自社が保有する技術の棚卸しに取りかかりました。

既存技術の棚卸しによる事業ドメインの構築
既存技術の棚卸しによる事業ドメインの構築
出所:『魂の経営』古森重隆(東洋経済新報社)p61より

 使ったのは、「戦略経営の父」と呼ばれるイゴール・アンゾフが提唱した「アンゾフの成長マトリクス」。「製品」と「市場」を「既存」と「新規」で4象限に分類し、事業拡大の戦略を模索するフレームワークです。「既存製品×既存市場」は「市場浸透戦略」、「既存製品×新規市場」は「新市場開拓戦略」、「新規製品×既存市場」は「新製品開発戦略」、「新規製品×新規市場」は「多角化戦略」と位置付けられます。富士フイルムでは「製品」を「技術」として、可能性をマッピングしました。

 既存技術×既存市場は、X線フィルムやデジタルX線画像診断装置。インスタントカメラの「チェキ」もこちらです。レンズ付きフィルム「写ルンです」は今なお人気があります。既存技術×新規市場は、液晶用フィルム、携帯電話用プラスチックレンズなど。新規技術×既存市場は、レーザー内視鏡や医用画像情報ネットワークシステムなど。以前からX線フィルムやX線画像診断システムを通じて持っている医療界とのつながりを生かした開発です。そして新規技術×新規市場は、医薬品、「アスタリフト」でおなじみの化粧品・サプリメントが該当します。

 こうして既存の技術の転用や応用に取り組んだ結果、フィルムや印画紙など写真関連事業で培った技術、ノウハウを医療、化粧品、デジタルイメージングの分野に展開し、事業構造を大きく変換させました。

「Digitize or Die」

 富士フイルムの特徴は、「デジタル化をおろそかにしてはいけない」「DXを軽んじると危ない」という意識が浸透し、定着していることです。この危機感は、フィルム市場喪失という危機に直面し、破壊的イノベーションの威力を実感したときに芽生えたものと言えるでしょう。

 同社コーポレートコミュニケーション部マーケティング戦略グループ長の板橋祐一氏は、破壊的イノベーションについて、こう語ります。

 「戦(いくさ)に例えるなら、弓矢や剣で戦っていた時代は、それなりに訓練を受けなければ戦場に立てませんでした。スキルがなければ戦力にならないわけです。しかし、鉄砲が発明されてからは武術の心得がなくても戦力を発揮できます。破壊的イノベーションはそれに近い。戦い方の技法が根本的に変わることに破壊的イノベーションの本質があると感じます」

 デジタルカメラの普及は、単に写真をアナログからデジタルに置き換えただけでなく、写真関連の事業モデルをも変化させました。

 「フィルム事業は、写真を現像、プリントすることによってマネタイズする事業です。しかし、デジタルカメラやスマートフォンが普及することにより、写真のデータをやりとりするSNSでの広告や、その通信を支える通信会社がマネタイズするビジネスが生まれました」(板橋氏)

 こうした大変革に直面した経験が、富士フイルムのDXを推進する原動力になっています。

 「当時はデジタル化やデジタルマーケティングの重要性が、理屈では理解されつつ、なかなか実行に反映されないこともありました。しかし、デジタル化の威力が身に染みて分かったことでマインドセットが変わりました。現在はどのような事業をするにしてもDXの視点で見るように変わっていますし、組織内においても、経営はもちろん、生産、研究開発、営業、間接部門に至るまで、全部署、全員がDXを意識するようになっています」(板橋氏)

2020年5月に発売したインスタント カメラ“チェキ”「instax mini 11」
2020年5月に発売したインスタント カメラ“チェキ”「instax mini 11」

 同社の取り組みでユニークなのは、既存×既存のアナログ商品のプロモーションにデジタルを積極活用してヒットを生み出していることです。インスタントカメラ「チェキ」のプロモーションは、テレビCMよりむしろSNSを活用することで広く認知されました。

 最初に火が付いたのは東アジアで、韓国のテレビドラマで使われたことや中国のセレブリティー層が使っている様子がブログやSNSで広まり、ヒットにつながっていきます。今で言うところのインフルエンサーマーケティングの手法です。チェキはデジタル全盛期の中でヒット商品になりました。

 フィリップ・コトラー教授は、「マーケティング4.0」時代のカスタマージャーニーの形として「5A」モデル(Aware:認知、Appeal:訴求、Ask:調査、Act:行動、Advocate:推奨)を提唱。中でも「推奨」を5Aの最後に置き、トップの「認知」に環流させる役割として位置付けています。チェキはこのモデルの実践例と言えるでしょう。

●「マーケティング4.0」の5A消費行動モデル
1.認知(Aware) カスタマージャーニーの入り口。他者から評判を聞いたり、ブランドの広告を見たりすることで認知される
2.訴求(Appeal) 認知したブランドの中から、自分に好ましいと思う少数のブランドに引きつけられた状態
3.調査(Ask) 引きつけられたブランドの中から、魅力を感じたブランドを調査する
4.行動(Act) 購買する。消費・使用だけでなく、アフターサービスを通じたコミュニケーションも行動に含まれる
5.推奨(Advocate) 商品、サービス、ブランドに強いロイヤルティーを持った人が自発的に他者に情報を発信し、推奨する

4Pを踏まえた戦略の整理

 富士フイルムの取り組みをDX2.0(マーケティング視点のDX)の4Pに照らして整理すると次のようになります。

Problem(課題)
 同社の課題は、デジタルカメラの普及で主力のフィルム事業を失うことでした。デジタルカメラの普及は、フィルムでは実現できなかった課題を解決した結果と見ることができます。
例)「うまく撮れているかどうか確認できない」「フィルム代、現像・プリントのコストがかかる」「撮れる枚数に限りがある」……。

Prediction(未来予測)
 フィルム市場の先行きは長くないことが予測できました。一方、フィルム開発で培ってきた自社技術は、新たな事業を生み出せる可能性があります。特にヘルスケア分野は、超高齢化社会の到来を迎えて中長期的な成長が予測できました。

Process(改善プロセス)
 3つのアプローチがあります。1つ目は、いくつかの技術を複合的に組み合わせ、世の中のニーズに応えていくため異分野の技術者が集結し、研究・知識・手法を融合させることで新技術・新事業の創造を目指す取り組み。これは富士フイルム先進研究所で実施しています。2つ目は、オープンイノベーション。日本、米シリコンバレー、オランダ・ティルバーグの3拠点に「オープンイノベーションハブ」を設けて、社外パートナーとの協業を通じて新たな価値を「共創」しています。3つ目は、強みや特徴を持つ会社を自社グループに取り入れる「M&A」です。

People(人の関与)
 古森重隆会長兼CEO(最高経営責任者)の強いリーダーシップの下、伝統的なフィルム会社からの脱却にまい進したことが、変革できなかった競合との差となって表れました。企業理念やあるべき人材像をまとめた「FUJIFILM WAY」。「PDCA」に代わる仕事のステップ「STPDサイクル(See-Think-Plan-Do)」をグローバル規模で浸透させたことで、変革の意識が従業員に根付いています。

コトラー氏と古森会長の共著 『Never Stop Winning Through Innovation』
コトラー氏と古森会長の共著 『Never Stop Winning Through Innovation』
「PDCA」に代わるマネジメントサイクル「STPD」
「PDCA」に代わるマネジメントサイクル「STPD」
出所:『魂の経営』古森重隆(東洋経済新報社)p188より

 こうした一連の富士フイルムの取り組みは、マーケティングの大家であるフィリップ・コトラー教授が15年のWorld Marketing Summitでテーマとした「Digitize or Die」を体現するものと言えるでしょう。富士フイルムはDXを成功させた世界トップクラスの企業として認知されるようになりました。

 19年に東京で開催された「World Marketing Summit」では、コトラー氏と古森会長がそろって登壇。講演前のディスカッションで意気投合したことをきっかけに、両氏は20年にイノベーションをテーマとする書籍『Never Stop Winning Through Innovation』を共著で出版しています。

●富士フイルム古森重隆会長兼CEOの「経営者に必要な10P」
1. Photo 現状を把握する
2. Predict 将来を予測する
3. Plan シミュレーションする
4. People 社員に明確なメッセージを発信
5. Perform 実行する
6. Passion 情熱を持って断固やり抜く
7. Philosophy リーダーとしての哲学、大局観を持つ
8. Perspective 客観的、多角的な視点を持つ
9. Philanthropy 社会に貢献する
10. Power 強いリーダーシップ