コロナ禍であらゆる仕事やサービスが強制的にデジタル化されました。対面の会議はリモートになり、紙の資料はデータ化され、クラウド上に置かれるようになりました。ではそれがDX(デジタルトランスフォーメーション)でしょうか? 「DXの一歩目であり、本質はその先にある」。これが『マーケティング視点のDX』著者の見方です。
DX(デジタルトランスフォーメーション)にマーケターが積極的に関与し推進する必要性を説く書籍『マーケティング視点のDX』(江端浩人著、日経BP、2020年10月19日発売)。本連載はその連動企画として、本書の一部内容や関連情報をお届けします。

マーケティング視点が欠如したDXの取り組みは、その多くは成果が上がらず失敗に終わっています。DXこそマーケターを関与させるべきではないでしょうか?
私の言うマーケターとは、必ずしもマーケティングを冠した部署に所属する人だけではなく、社会やそこに関与する組織・人間の抱える課題を理解し、将来のあるべき姿から逆算して今までにない解決方法を提供する人のことを指します。すなわち実行されるのはマーケティングとイノベーションであり、提供される多くの解決方法はデジタルを活用することにより生まれます。
マーケティング目線が何よりも重要なもう1つの理由は、データの活用にあります。社会の動向をきちんと把握し、またユーザーの課題を把握するためには、データによって導き出された事実をベースに議論し、マーケターの持つユーザーの調査・分析といった手法を有益に活用する必要があります。経営判断もKKD(勘と経験と度胸)から、データドリブンに移行するべきです。
海外に遅れること数年。日本にもDXの波が到来していますが、なかなかめぼしいDXの成功事例が聞こえてきません。それは、国内では「デジタル」という言葉に引きずられて、「DX=ITの仕事」となっているからではないでしょうか。
解決すべき課題が見えない状態で現場にデジタル化を求めても、DXは成功しません。成功の鍵を握るのは、実はデータに基づく顧客視点のマーケティングです。
新型コロナウイルスの感染拡大により、日本でも強制的にデジタル化しなければならない事象が多くなり、結果的にDXが進行したことは間違いありません。米マイクロソフトCEO(最高経営責任者)のサティア・ナデラ氏は、「コロナ禍の2カ月で2年分の進化を遂げた」と評しています。
しかし、それらは会社の業務に必要な部分や供給側の理屈で必要に迫られて移行したものがまだまだ多く、決して顧客のニーズに基づいて行われたものではありません。
国内のDXの議論は、IT部門が必要な機能を提供するDX1.0にまだ比重が偏っています。もちろんそれは土台として必要不可欠です。そのうえで国際的に通用、評価されるDXを実現するには、マーケティング視点のDX(=DX2.0)を推進する必要があります。
マーケティング視点のDX(DX2.0)とDX1.0
マーケティングでは、消費者のニーズを捉えたり、サービスの内容などを考えたりする際、「マズローの欲求5段階説」がよく用いられます。これは、人間の欲求が基礎的な欲求から始まり、満たされるごとに高次元化していくことを表すものです。
【安全欲求】身体的な危機を回避し、安心・安全で健康的かつ経済的にも安定した状態で暮らしたいと考える欲求
【社会的欲求】家庭や会社など何らかの集団に所属し、受け入れられることを求める欲求。「愛情と所属の欲求」「帰属の欲求」とも言う
【承認欲求】所属する集団の中で他者から認められ、高く評価される、尊敬されることを求める欲求
【自己実現欲求】自分の人生観に基づいて、自分の理想とする自分になる、自分らしく生きることを求める欲求
この欲求の変化を踏まえて、米国の経営学者であり、私が友人として親しくお付き合いさせてもらっているフィリップ・コトラー教授は、マーケティング1.0~4.0の概念を提唱しています。つまり、マズローの欲求5段階説と、コトラーのマーケティング1.0~4.0はある程度重ね合わせることができます。
マズローの第1段階(生理的欲求)と第2段階(安全欲求)は衣食住を満たしたい欲求であり、物質的欲求とも呼ばれます。ここに該当するのがマーケティング1.0です。
マーケティング1.0は、需要に対して供給が不足している状態で生活必需品を作れば売れた、大量生産・大量消費の時代です。ここで「マーケティングの4P」Product(製品)、Price(価格)、Place(流通)、Promotion(宣伝)─も考案されました。
機能性と安全性を満たした生活必需品が市場に出ると、人は所属する社会との関係性の中でより自分に合ったものを求めます。マーケティング2.0はそんな社会的欲求に応える顧客志向のマーケティングで、「STP分析」~Segmentation(市場を細分化)、Targeting(狙う市場を定める)、Positioning(立ち位置を明確にして差異化を図る)やブランド構築の観点から競合他社に勝つための戦略を練ります。
マズローの第4段階(承認欲求)、第5段階(自己実現欲求)に該当するのがマーケティング3.0およびマーケティング4.0です。単に高機能なだけでなく、例えば省エネ、節水といった環境志向であったり、社会的貢献に熱心な企業の商品を所有することで他者から共感されたりするような価値主導のマーケティングが3.0です。
そしてマーケティング4.0は、自己実現のマーケティングとも呼ばれます。その商品・サービスは自分らしさを体現するものであり、時にSNSを通じて熱心なエバンジェリスト(伝道師)となって、ブランドに深く関与していくことを求める。そんな関係性の構築を目指すものです。
DXについても同様のことが言えます。マズローの図とDXの取り組みを重ねてみると、低次の物質的欲求については、IT化、デジタル化によってそこそこ実現されました。
例えば、手紙はメールになり、切符は交通系ICカード(「Suica」など)になるという具合に、アナログからデジタルに置き換わっています。DXの根底にあるインターネット環境に関しても、セキュリティーが担保され、ストレスなく動くPCや回線環境が整いました。これらはデジタル化の基礎的な取り組みで、マズローの図における生理的欲求や安全欲求に該当するものと言えるでしょう。
ここまではIT化、デジタル化で実現できます。この領域を著者はDX1.0と位置付けています。その上はさらに高い次元の取り組みです。例えば、社会的欲求を満たすために、友人や顧客とつながったり、相手が期待するソリューションを提供して喜んでもらいたいと考えたりするようになります。
自己実現という観点からは、例えば日本中を旅しながら仕事もこなす、ワーケーションスタイルを確立したいといった願望も生まれてくるでしょう。それには、遠隔でも仕事ができるインターネット回線、オンライン宿泊予約、オンライン航空券、特急券、レンタカー予約などがそれぞれただバラバラに存在しているDX1.0フェーズでは、使い勝手が良いとは言えません。
月額固定料金で全国の指定施設を利用できたり、その会員向けに移動の足となる交通機関の運賃が割安になったりするサービスがパッケージ化されれば、「1年中ワーケーション」も夢物語ではなく新しい生活・仕事スタイルの一様式になるでしょう。多拠点生活(マルチハビテーション)の普及に弾みがつくはずです。このような価値を創造するのが、『マーケティング視点のDX』でDX2.0と位置付けている、高次元のDXです。