1988年のニッポン放送「伊集院光のオールナイトニッポン」で、ラジオの仕事がスタートした。世間をあっと言わせる企画でラジオを盛り上げたその裏には、当時のニッポン放送で学んだラジオの基本があるという。ラジオならではの企画は、どう生まれるのか。日経トレンディ収録のインタビュー後編をお届けする。

※日経トレンディ2020年11月号の記事を再構成

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ニッポン放送ではラジオの基本をたたき込まれた

――パーソナリティーとしてのキャリアのスタートは、ニッポン放送の「伊集院光のオールナイトニッポン」。三遊亭楽太郎(現:圓楽)の下に入門し、師匠に内緒で「伊集院光」の名前でラジオ番組に出演したとはいえ、落語家修業中の青年が、なぜ看板番組のパーソナリティーになれたのでしょうか。続く、「伊集院光のOh!デカナイト」(ニッポン放送)では、球場に1万人集客したイベントを開催するなど様々な企画でラジオを盛り上げています。

 当時「オールナイトニッポン」ってすごく成熟していて全曜日が全員有名人で埋まっていたんです。ぜいたくなことに「それは良くない、得体の知れないやつが1人2人必要だ」という方針が出て、「オーディション番組に出ていた変なやつ」こと僕に、白羽の矢が立ちました。最初の担当はオールナイトニッポンの中で一番年配のディレクターさんで、あまりやる気のない(笑)、家がすごい遠いから、終わるとすぐ帰っちゃう人(笑)。だから20歳の僕と1つ上の構成作家という、キャリアがない2人で、こんなことやったら面白いんじゃないかということを考えました。ディレクター氏は「いいんじゃない?」なんて自由にやらせてくれました。

 僕は最初にもらった給料でデンスケという取材用の録音機材を買って、勝手に自分で音声を録ってきて「流していいですか!」「いいんじゃない?」なんて流してました(笑)。

 ニッポン放送では、ラジオの基本をたたき込まれました。今でこそ、他媒体で売れている人や、歌手やお笑いとして売れている人がラジオのパーソナリティーをやる形が多いですが、当時のニッポン放送はラジオのプロという自負があって、ラジオ専門局としてうるさいスタッフがいっぱいいて、若いアナウンサーが一から教えられて番組を持ったり、僕みたいな無名の人間を囲って教育したりというのがあった。

 細かいことを言い出すと切りがありませんが、一人称二人称のしゃべる内容ごとの使い分けから、マイクの特性とその使い方まで、これは今でも役に立っています。

 ニッポン放送時代は好景気だったこともあってイベントの規模も桁違いでしたね。「ザ・ベースボールクイズ」っていう、野球をモチーフにしたクイズコーナーがあって、ただの思い付きで、東京ドームだ西武球場だを借り切ってやってましたね。

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