2022年7月21日にオンラインイベント「日経クロストレンドFORUM 2022」に登壇する大丸松坂屋百貨店の澤田太郎社長。ブランド服のサブスクサービス「アナザーアドレス」やD2Cブランド向けショールーミングスペース「明日見世(あすみせ)」など、新たな試みに次々に取り組む澤田社長の原点をひもとく。
セブン&アイ・ホールディングスが、傘下の百貨店事業会社であるそごう・西武の売却を進めているそうだ。そごう・西武は、2006年に28あった店舗が10店舗と半分以下に。かつての西武グループの勢いを目にしてきただけに、そこまで縮小していたのかと驚いた。
報道では「百貨店ビジネスはもはや行き詰まっている」「業態として成立しづらくなっている」といったコメントが多く見られたが、「百貨店がだめになる」という言い方に違和感を抱いた。従来のやり方が通用しないのは、新型コロナウイルス禍以前から分かっていたこと。「まだ何とか」と先送りにしていた百貨店がある一方、新たな挑戦をしている百貨店もある。特に21年あたりから、前向きな動きが目につくようになってきた。
欧州や米国の百貨店も試行錯誤を続けている。お手本や正解があるわけではなく、道なき道を切り開いていかねばならない。ターニングポイントにあるからこそ、明快な指針を持ち、実践していくリーダーが求められると感じていた。
今回はそういった意味も含め、大丸松坂屋百貨店(以下、大丸松坂屋)の社長を務める澤田太郎さんに話を聞いた。
大丸松坂屋について強い思い入れがあるわけではない。上野にある松坂屋上野店、東京駅に隣接した大丸東京店の存在を知ってはいたが、これといった強い印象を持っていなかった。親会社であるJ.フロントリテイリングが東京・銀座の商業施設「GINZA SIX(ギンザシックス)」を運営するなど、ファッションビル的な動きをしているのを見て、立地を生かした不動産事業的な視点で百貨店を運営しているのだと思っていた。もっと言えば、非常に合理的にビジネスを展開している企業で、“楽しさ”や“感覚”といった領域をあまり重視していないイメージを抱いていたのである。
「培ってきた財産」「未来に向けた挑戦」の双方を強化
澤田さんとお会いしたのは、大丸松坂屋が21年に始めたサブスクリプション(定額課金)ファッションレンタルサービス「AnotherADdress(アナザーアドレス)」の取材を通してだった。担当者の話を聞き、経営陣の判断が迅速だったことが、業界初のサブスクリプションサービスを実現させたと分かり、取材をお願いしたのだ。
アナザーアドレスだけではない。大丸東京店ではD2C(ダイレクト・トゥ・コンシューマー)ブランドのショールーミングストア「明日見世(あすみせ)」を展開して可能性を秘めたブランドにリアルな場を提供しているし、外商に特化したオンラインサイト「コネスリーニュ」を立ち上げ、若い富裕層狙いの品ぞろえやイベントなどにも力を入れている。「これから百貨店が生き残っていくためには、トライアル&エラーを重ねてもいいと思っている。若い人は失敗を恐れずチャレンジしてほしいし、判断したからには腹をくくる用意はあります」という澤田さんの言葉が印象に残った。
どういう方向に舵(かじ)を切ろうとしているのか、次の時代に向けた百貨店「らしさ」とは何なのか。もっと言えば、大丸らしさ、松坂屋らしさとは何であり、それをどう形にしていくのか――。あれこれ知りたくなり、改めて取材を申し込んだ。
澤田さんが大丸松坂屋の社長に就いたのは、20年春、新型コロナウイルス禍のまっただ中でのことだった。「百貨店をどう存続・進化させていくかは以前からの課題でした。何より百貨店がニッチ産業ということを認識した上で、これからの戦略を練ることが必要と感じてきました」。ニッチ産業とはどういうことかと突っ込んだら、戦後からの流通の流れに話は及んだ。
かつての百貨店は、小売りのいわば王様的な役割を担っていた。売り上げにおいても質においてもトップを行く存在だった。豊かで上質なライススタイルを見せることで、人々の憧れを掻(か)き立てたのである。
それが、バブル景気がはじけたあたりから様相が変わった。売り上げが前年を割り込むようになり、売り場の一部で恒常的なバーゲンが行われるなど、上質なライフスタイルの提案という役割が弱まっていったのだ。1991年には約9兆円あった売り上げが、2021年は約4兆円まで減っている。若い層の中には、かつての百貨店の姿をまったく知らず、自分たちとは関係ない場ととらえている人が少なくない。
「18年から3年間、J.フロントリテイリングに籍を置き、外から百貨店を見たことが良い経験になりました。今のままでは成長イメージがまったく湧かないと、強い危機意識を抱く一方で、百貨店として成長できる可能性はあると感じていたのです」。その言葉に、百貨店への愛と、よい意味での誇りが込められている。愛情の源はどこにあるのか。
百貨店の華やかさに引かれて就職
澤田さんは神戸で生まれ育ち、お父さんは銀行のエリートだった。どこかお坊ちゃん的な風情があるのは、そんなところにルーツがあるのかもしれない。小さいころから工夫して遊ぶのが好きで、3億円事件にまつわる記事を切り貼りして「探偵手帳」なるものを作ったり、札幌冬季五輪のときはジャンプ台の模型のようなものを作って友人と競うゲームを創作したりしていた。頭と手を動かして工夫してみる、面白いことをやってみる、そういう行為自体を楽しんでいた。
ファッションは、おしゃれなお姉さんの影響もあって小さいころから好きだったという。私立の中高一貫校に通っていたが、制服があって規則が厳しかった。「制服のズボンにポケットがなかったのですが、手を入れて歩いた方がかっこいいじゃないですか。当時、大人気だった『ヴァンジャケット』にほぼ同じデザインのズボンがあったので、こっそり着てかっこつけていました」。シャツもボタンダウンに、靴もコインローファーにと、校則を破っておしゃれを楽しんでいたという。
お父さんは「勉強して良い学校に入って、良い会社に行きなさい」と厳しかった。「灘中に入って東大か京大へ、そして銀行へ」という将来を強く望んでいたという。「それなりに勉強したのですが、望んだ大学には行けず、滋賀大学に進んだのです」。父親の期待への反抗や、望みがかなわなかったことへの後悔はなかった。思う存分キャンパスライフを楽しんだというのだ。現実を受け止め、そこに面白さを見いだして工夫する姿が、今の澤田さんと重なる。
そして、お中元とお歳暮の時期は地元神戸に帰り、大丸神戸店でアルバイトをしていた。幼いころからなじみのあった大丸神戸店でのアルバイトは、華やかな世界に触れることができて楽しかったという。
そしていざ就職。商社や新聞社に興味はあったものの、のんびり構えていて、真剣に準備していなかった。そんな折に大丸神戸店でアルバイトしていたことを思い出し、商社とは違うものの、流通に関わるのは面白そうと受けることに。周到に準備を重ね、厳しい試験をくぐり抜けた。
最初に配属されたのは、1階の紳士セーター売り場だった。当時の百貨店は、ブラウス、セーター、スカートといったように、アイテム別の平場があったのだ。「売り場に立って接客したり商品整理をしたりと、日々目が回るような忙しさでしたが、どの仕事も楽しかった」。景気が抜群に良かった時代、毎週末、お祭り的にバーゲンをやっていたというが、そのときのこぼれ話も面白い。
新人だった澤田さんは、玄関口でセールの告知と呼び込みをやっていたのだが、毎週やるうち、「同じ言葉を繰り返して言うだけだから、録音して流してもいいのでは」と思いついた。上司に提案したところ、「やってみなさい」ということで、もう一人の女性と自分の声を交互に吹き込んで、それを繰り返し流すことに。自分は売り場に張りついて接客に回った。告知と呼び込みがスムーズにでき、効率も上がったということで、良い成果を上げることができたのだ。
地元とつながって上質で豊かなワクワク感を提案
当時の大丸神戸店では、旧居留地だった周辺エリアを含めた街ぐるみの開発が進んでいた。歴史ある建造物の躯体(くたい)をそのまま生かし、内装をモダンにリノベーションしたショップを次々と登場させていた。服に限らず、飲食やインテリアも含め、街を練り歩いてショッピングする楽しさを提案し、海外からも視察に訪れる人が絶えない場でもあったのだ。
「店ができて街が変わる。お客様が喜ぶ姿を目の当たりにし、僕も含めた社員のモチベーションがどんどん上がっていくのを体感することができたのです」(澤田さん)。街と店と人が一体となってエネルギーを発している――。地元とつながって上質で豊かなワクワク感を提案していくのは、百貨店が持っている財産といえる。
もう1つ、百貨店の財産とつながるエピソードがある。阪神大震災の後、大丸神戸店を再開するときのことだった。生活がまだ不自由な状況を鑑み、バーゲンセールをやってはどうかという案が出たが、当時の店長の判断は「ノー」だった。百貨店本来の役割は、お客様に明るく華やいだ気分になってもらうこと。震災前と同様か、それ以上の知恵と工夫を凝らし、品ぞろえや装飾に力を入れることにしたという。「お客様の表情がパッと輝くのを目の当たりにし、百貨店の矜持(きょうじ)とは何か、リーダーシップとは何かについて考えさせられました」(澤田さん)
百貨店の根っこにある“らしさ”を体感し、さまざまな売り場を担当しながら、澤田さんは新たな取り組みに挑戦していった。
例えば、インバウンド需要が大きく伸びていたころ、担当していた大丸心斎橋店の化粧品売り場を見ていて、「インバウンドのお客様とそうでない方を分けた方がいいのでは」と思いついた。売り場の販売員に相談したところ、「お客様も喜んでくれるし、売り上げも上がる」と賛成の声を得たのだが、社内に提案したら「前例がない」「他がやっていない」と反対の声が上がった。
澤田さんは諦めなかった。現場の声を聞き、自分の目で観察し、これはイケるという確信があったから粘った。まずは取引先ブランドを口説き、それを武器に上層部を説得したのだ。蓋を開けたところ、予想を上回る手応えを得たという。ここぞというときには周到に準備する。既存の枠組みにとらわれず、「イケる」と思ったらやってみる。澤田流の突破力ともいえるものだ。
<後編に続く>
(写真提供/大丸松坂屋百貨店)