人は年齢を重ねる中で、軽重はあれど自らに課す“掟(おきて)”を持つものだ。それを破ればもっと要領よく生きていけると逡巡(しゅんじゅん)すれど、「過去の自分を否定できない」と守り続けるような、決まり事である。G-SHOCK生みの親、カシオ計算機の伊部菊雄がそれを見つけたのは、高校卒業後の浪人生活でだった。
【第2回】G-SHOCK開発の糸口は、父がくれた高級時計の「ばらばら事件」
【第3回】G-SHOCKと苦悩 辞表提出まで追い込まれた窮地で得たひらめき
【第4回】ついにG-SHOCK完成 カシオへの恩を貫き通す
医者を諦め、消去法で選んできた道
伊部菊雄は1952年11月、新潟県柏崎市で生まれた。冬には積雪のせいで2階から出入りした記憶がある。ただ、海沿いの柏崎は豪雪地帯ではない。近隣を訪ねたときの思い出かもしれない。一家は伊部が幼稚園のとき、東京・池袋の椎名町に引っ越した。ほぼ東京出身、と言っていいだろう。
最初になりたいと思ったのは医師だった。
「親が医者とか、そういうことじゃないです。ただ漠然と人の役に立ちたいというのがあったと思います」
転機が訪れたのは小学校の理科の授業だった。イモ虫の解剖をすることになった。動いているイモ虫を見たとき、足がすくんだ。
「生きているイモ虫をナイフで切るというのがかわいそうに思ってしまった。手が震えて、クラスで私だけができなかった。もともと、血を見るのが好きではなかった。絶対に医者には向いていないとそのとき諦めました」
その後、都立の練馬高校に進んだ。
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