エステー執行役エグゼクティブ・クリエイティブディレクターの鹿毛康司氏が考える「マーケティング部に異動になった社員が活躍する方法」。後編は「N=1」を大切にして生まれた“ある成功例”を紹介する。新型コロナウイルスの感染拡大で自粛ムードが広がるなか、鹿毛氏の言葉から得るものは大きい。

エステー執行役エグゼクティブ・クリエイティブディレクターの鹿毛康司氏
エステー執行役エグゼクティブ・クリエイティブディレクターの鹿毛康司氏
鹿毛康司氏のオンラインセミナーを開催
日経クロストレンドの有料会員限定で鹿毛康司氏によるオンラインセミナー「コロナ時代、マーケターはどう動くべきか」を5月27日、19時から20時まで開催します。申し込みはこちらからお願いします。

前回はこちら「マーケ部門に異動したあなたへ 鹿毛氏『手法より人の心の理解』」

 プロのマーケターになることで、仕事も人生も面白くなると思います。それはクー・マーケティング・カンパニー代表取締役の音部大輔さん、OFFICE MASA代表で吉野家常務取締役の伊東正明さん、プリファード・ネットワークス執行役員CMO(最高マーケティング責任者)の富永朋信さん、Strategy Partners代表取締役でMarketing Force共同創業者の西口一希さんなどを見ていて感じることです。

 この方々はマーケティングの“手法”の部分をよく取材や講演会などで話しており、そればかりを大切にしているように見えますが、「人を見る」ということを一番大切にしています。聞かれなかったり、青臭かったりするのであえて話さないだけで、本当に大切にしていることは皆共通しているのです。糸井重里さんもまさしくその気持ちを大事にしている(関連記事「鹿毛康司 vs 糸井重里 ヒットを生む、心の中の『大衆』<前編>」)。

 しかし現実問題、会社はデータを示さなければ動かないことが多い。企業活動というのは、やらない理由はいくらでも作れますが、やる理由というのは一切言えないのです。

 やる理由が一切言えない――。2011年の東日本大震災直後に私が作ったエステー「消臭力」のCMがまさにそれでした。ほとんどの企業がACジャパン(公共広告機構)のCMに差し替えている中、私は新しいCMを流す必要性を説明できませんでした。商品は福島県いわき市の工場にあり、在庫は少ない。経済合理性を考えると、CMを流すのはナンセンス。売り上げが下がることも予測される中、広告投資をしていいのかという問題。さらに自粛ムードが広がる中で新たなCMを打つことは、バッシングの対象になる可能性がある。やらない理由を挙げると切りがありませんでした。

少しでも喜んでもらいたい

 私は数十年間「“企業”とは何か」をずっと考えていて、「企業とはサービスを提供することで誰かに喜んでもらうもの。すなわちこれこそ、企業が存続できる理由だ」という答えにたどり着きました。企業のミッションに立ち戻ることも、マーケターには必要だと思っています。震災が起きたとき「東北の人たちは、何をしたら喜んでくれるのだろうか」と考えられたのは理念に沿ったからです。

 当時、Twitterを見ていると「繰り返されるACのCMにうんざりする」という声が多数上がっていました。そんな中ふと、「あの愉快なエステーのCMが、再び流れる世の中になればいい」というツイートを発見しました。東北の多くの人たちは日常に戻りたいと思いながら、必死で頑張っているんだ。そんな人たちに、エステーのクスッと笑えるCMを届けて、少しでも喜んでもらいたいと思いました。この考えは、まさしく調査データだけでは出てこないものでしょう。

 経済合理性の観点からいくと、会社はGoサインを出さないだろうと思っていました。しかし、私にとって奇跡だったのは、当時の社長・鈴木喬(現・取締役会議長/代表執行役会長/経営全般担当)がいたことでした。11年3月16日の朝にCMを打ちたいと話をすると、椅子から立ち上がり握手を求められ「鹿毛さん、これは“志”ということですね。これまで東北の方たちからもらっていた恩義を今こそお返しすべきですな」と言ってくれたのです。

 さらに撮影場所の候補にポルトガル・リスボンが挙がっていることを伝えると、「その街は1755年に起きた地震で津波などの被害に遭い、6万人超の死者を出した街だ」と鈴木は教えてくれました。しかし、私はその過去を知らず、「鹿毛さん、あなたはMBAも取得しているのにそんなことも知らないのかい」と鈴木に言われてしまいました(笑)。私は偶然にも、そんな歴史を持つ街リスボンを選んでおり、この話を聞いて撮影場所に即決したのは言うまでもありません。

 CM撮影は復興を遂げた家並みを背景に行いました。その街の中で、ミゲル少年がアカペラで「消臭力ソング」を歌い上げる――。そんな日常を描きながら、ブランドのアイデンティティーでもある「空気を変える」ことに挑戦しました。

 放送開始日には鈴木が全社ミーティングを開き、「本日から『消臭力』のCMを打ちます」と社員へ大々的に伝えました。在庫を抱えていないこともあり、社内からクレームの声も上がりましたが、結果、世間の皆様から大きな反響をいただきました。当時、CM好感度ランキングで、当社がこれまで取ったことのないような高いスコアを記録し、同年の8月にはミュージシャンの西川貴教さんにもご出演いただきついに1位を獲得しました。これがきっかけとなり、お客様との絆も一層強まったと考えています。

「心を見る」仕事とは

 このとき私は、CM好感度ランキング1位を狙いにいく目的でCMを作ったわけでは決してありません。今まで偉そうにセミナーで講演をしてきた自分が、なぜ今この状況で小さく縮こまっているのだろうという、どこか悔しい気持ちがあったから作れたのでしょう。CMを作らずこのまま終わってしまえば、ただの手法的マーケターに成り下がってしまうという思いもありました。

 この決断は前述の通り、会社に大きな損害を与えるリスクがありました。そこで私もリスクを取り、もしも会社に損害を与えてしまったら辞職するという覚悟でこのCMを打ちました。それは鈴木と私の間だけの暗黙の了解でしたが、反響を受け鈴木が「あなた会社辞めなくて済みそうですな」と声を掛けてきたのは今では懐かしい思い出です。

 これほどまでの反響は誰にも予測できなかったけれど、決して“ばくち”ではありませんでした。これは自分の中のN=1をしっかり見た結果だと言うこともできます。そしてこれは鈴木が会社にいてくれたから実現できた事例です。会社を辞めるリスクを背負うほどの仕事のやり方はお勧めしませんが、究極「心を見る」仕事とはこういったことなのだと思います。

 今起きているコロナの問題は、震災のときとは全く違います。あのときのような「日常に戻ろう」をテーマにしてむやみな行動をとると、迷惑をかけてしまいます。今もまた、自分というN=1の心の中と会話しています。人と話すこと、人のぬくもりこそがどんなに大切なことかを思い知らされています。

 そして企業理念に沿って考え、新しい消臭力のCMを作りました。20年3月12日はまだ撮影が許されていたときで、ギリギリ完成することができました。「悲しいときは泣けばいい、ただ明日の朝には笑ってる君がいてほしい」という歌詞が出てきました。CMの最後には西川貴教さんに「空気を変えるぞ」と叫んでいただきました。それが正しい答えなのかは分かりませんが、自分の中のN=1と企業理念に沿って素直に作ってみました。

(構成/中山 洋平 写真/酒井 康治)