松下電器産業(当時)で念願かなって配属された宣伝広告部で、後の作品にも生きる人間観察力を磨いた。3年で松下を辞めた弘兼憲史だが、退社後も金には困らない生活を送った。だが新人賞の受賞後は何本かの連載をするもののなかなかオリジナル作品を描く機会に恵まれず、漫画家として模索が続いた。
サラリーマンになり人生で初めて人格を否定された
作家、堺屋太一は1976年に発表した小説『団塊の世代』の中で、団塊の世代が就学年齢に達すると小学校が不足し、学校建設と教員の増加が必要になったと書いている。
〈同じことが高校、大学でも起こった。この世代がハイティーンになると、ハイティーン市場が膨張したし、二十歳代の「ヤング」になると、〝ヤング的騒々しさ〟が日本を圧した〉
堺屋太一『団塊の世代』
そしてこの世代の
〈人口の脹みは、日本社会の中で目に見えない「団塊」を構成し、数々の需要と流行を作った〉
同前
と――。
70年4月、弘兼憲史は早稲田大学法学部を卒業、松下電器に入社した。このとき日本は高度成長のただ中にあった。そんな中、同年代の人間たちが社会に出たのだ。もともと消費の習癖がついていた団塊の世代が金銭的余裕を得たことになる。彼らの欲望の一つ、音響、映像などの家電製品を製造していた松下電器の業績はさらに上向くことになった。
弘兼はこう振り返る。
「入社時、月給は4万1000円だった。それが2年目に8万円くらいになった。3年目は11万2500円。日本全体がそういう時代だったんです」
堺屋は前掲書でこうも書いている。
〈「二十一世紀は日本の世紀」という未来学者の予言を信じ、あまりにも巨大であまりにも高度な未来予測に仰天し、全てを踏みつぶして前進し続ける経済成長に腹を立てつつも、全ての日本人が成長に向かって突走った時代であった。企業は先行投資に狂奔し、個人は土地を求め家を建て急いだ。”誰もが成長に遅れることを恐れ、借金の増加を怖がらない”、そんな時代だ〉
堺屋太一『団塊の世代』
社会に“明日は今日より豊かであるだろう”という幻想が満ちあふれていたのだ。会社員生活は理不尽なこともあったが、それも含めて面白かったと弘兼はほほ笑む。
「小中高と割と優等生だったから、ほとんど怒られたことがなかった。中学生のときに集団責任ということで、みんなでビンタをされたぐらい。親にも怒られなかった。大学時代の寮でも先輩から怒られたけれど、大したことはない。会社に入ると、仕事のやり方が悪いとかめちゃくちゃ怒られた。当時の松下電器というのは上司が部下を怒るので有名な会社だった。3時間説教とか普通だった。今から考えれば、3時間も説教する時間がよくあったなぁと思う。ぼくらは全共闘世代だからおおむね生意気で、大学の先生たちをつるし上げたり、教授を呼び捨てにしたりしていた。それがいきなり規律の中に放り込まれた。ぼろくそに言われて、まさに人格を否定された」
3時間説教をした後、感極まったのか、その上司が泣き出した。弘兼はそれを見て、大人が人前で泣くのかと目を丸くしたという。
「(松下電器の)寮に帰ったら、みんなが今日はこんなふうに怒られたとかって、怒られ自慢をやっている」
怒鳴られながらも弘兼たちは冷静だったのだ。
「嫌われる上司っているでしょ。なぜ嫌われるのか分析するんです。やっぱり嫌われる上司というのは、仕事に厳しくて、弱点をバーンと突いてくる。そこはいいのだけど、しつこい。あと、お金にセコい人。本社から地方に出張して、自分たちが払うような顔をして、人を集めろ、女の子を集めろって宴会をする。それでその支払いを支社に請求するとか。えっ、本社が払うんじゃないですかって言われると、『なんでわしが持たなあかんのや』って」
一方、好かれる上司もいた。
「これは部下の将来を考えたら、いいのかは分からないんだけれど、優しくて怒らない人。一緒の目線で話してくれる人。本社では若い社員はそんなに多くない。だから年齢が上の人とどう付き合うか。“ジジ殺し”の方法を学んでいくわけです。こんなくそ親父とは飲みたくないと思っても逃げない。体調が悪くても我慢して行った」
後に、この人間観察が登場人物描写の役に立つことになる。
「ぼくは中学、高校と一貫校だったし、大学も当時はある程度裕福な家庭じゃないと行くことができなかった。だから家庭環境や頭の出来もだいたい似通った層が集まっている。でも、会社は全然違う。もともと森繁久彌の(主演映画)『社長漫遊記』や、(小説家)源氏鶏太のサラリーマンものが好きだったんです。もちろん映画ほど楽しそうではないんだけれど、生真面目すぎる人、すぐに宴会をやりたがる人、上司の機嫌ばかりとっている人、などキャラクターの立った人がいた」
弘兼の松下電器勤務は3年3カ月で終わった。漫画家でやっていくことを決意したのだ。
「そのときの他の漫画家の絵を見て、この程度でいけるのかというのがあった」
「変な過信ですね」と笑った。
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