親の説得で美大を諦め、就職に有利な東京の大学を目指した弘兼憲史。漫画研究会では常識の一コマ漫画ではなくストーリー漫画を描きながらも堅実なサラリーマンになることを決めた。学生運動を横目に岸信介、佐藤栄作らの後ろ盾を得た意外な縁とは……。

大学進学では美大を希望した弘兼だが、親に反対され選んだ道は……
大学進学では美大を希望した弘兼だが、親に反対され選んだ道は……

美大を諦め新聞記者を目指して早稲田へ

 大学進学を考える時期になり、弘兼憲史は当初、絵を生かすために美大へ進むことを漠然と考えていた。

 「(中高の)6年間、高校受験がないから好き勝手して勉強なんてしていなかった。気がついたら高3の秋になっていたんです。東京芸大を受けたいって言ったら、親から反対された。絵描きは食えん、と。確かに当たっています。一般の大学に入って美術部に入ればいいだろうって。それはそうだなと思った。ぼくたちの1つ下、昭和23年生まれはさらに人数が多い。一浪したらどこにも入れないって先生が脅すわけです。現役で入るために一生懸命勉強しました。漫画家になりたいという漠然とした思いはあったけれど、具体的には何も将来について考えていなかった。新聞記者なんかもいいかなと思ったことがありました。新聞記者になるためには、東京に行って早稲田(大学)に入らなければならない、と」

 早稲田大学の政治経済学部、法学部、商学部を受けて、法学部と商学部には合格した。「高校受験のときもそうなんですけれど、ぼくは第1志望には落ちる」。弘兼はフフフと笑った。

 上京して法学部校舎に足を踏み入れると、同級生たちはどの法律系サークルに入るかという話を熱心にしていた。自分は受かっただけでまったく法律などに興味がなかったのだと、弘兼は首を振った。そして漫画研究会――漫研へ向かった。

 「(受験雑誌の)『蛍雪時代』のグラビアで漫画研究会が取り上げられていたんです。東海林さだおさんとかが出ているって書かれていた。これはおもしろそうだ、早稲田に受かったらここへ行こうと決めてましたね」

 早稲田の漫画研究会は東海林さだお、福地泡介、園山俊二が設立した、漫画サークルである。漫研は大学近くの第一学生会館の2階にあり、アナウンス研究会と婦人問題研究会と共同で部室を使用していた。

 「(45年生まれの元フリーアナウンサーで故人の)逸見(政孝)さんともすれ違っているんじゃないかな」

 当時の漫研の主流は一コマ漫画だった。一コマ漫画とは、新聞の政治欄などに掲載される、風刺の利いた漫画である。貸本に馴染み、物語を重視した漫画を目指していた弘兼とは少々肌合いが違った。

 「このときの漫研には、ストーリー漫画の文化がなかった。大学生なのだから、もっと知的な、政治的な要素を含んだ漫画を描かなければならないと考えていたのかもしれない。一コマ漫画は得意ではなかったので、ぼくは(サークルの中で)うまいとは思われていなかったでしょうね」

一コマ漫画は得意ではなかったという弘兼
一コマ漫画は得意ではなかったという弘兼

 漫研には代々受け継がれてきたアルバイトがあった。先輩が編集者として働いていた実業之日本社の原稿取り、である。

 「馬場のぼる先生や佐川美代太郎先生のところに行きました。原稿をもらったらタクシーで編集部に運ぶ。そのときに初めてタクシーに乗るわけです。応接間で5時間とか待たされて、ふらふらの徹夜明けの顔で先生たちが出て来る。これは大変な職業だ。漫画家には到底なれないと思いましたね。ぼくは困難なことからすぐに逃げるタイプだから、漫画家は駄目だ、サラリーマンになろうと」

 弘兼は表現者にありがちな自堕落さとは無縁の男である。大学時代、彼は代々木上原にあった『岩陽学舎』に住んでいた。岩陽学舎は1902年に旧岩国藩主が地元出身の学生のために立ち上げた学生寮である。この岩陽学舎の近くに外国人留学生向けの下宿があった。

 「顔を合わせて、ハーイとか挨拶しているうちに、拙い英語で話し掛けるようになった。パーティーやるから来いって言われて行ったこともあります。そしたらチーズフォンデュが出てきた。チーズフォンデュって今でこそ、みんな知っているけど、当時は誰も知らなかった。エメンタールチーズとグリュイエールチーズをすり下ろして、白ワインと共に鍋に入れて溶かす。これがすごくおいしかった。チーズフォンデュと共に彼らはワインを飲んでいたんです。ぼくたちは500円ウイスキーしか飲まなかった。500円と言ったって、今ならば5000円ぐらいの感覚。ワインはそれよりも高かった」

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