どんな人間であれ、時代の奔流からは逃れられないものだ。自分の躯(からだ)の奥底から浮かび上がってきたように見える表現も、その時代が操っているときもある。いや、逆だ。優れた表現者は時代の空気を吸って、何を創るべきなのかを的確に捉えられる。漫画家・弘兼憲史もそんな一人である。

サラリーマン生活のリアルに織り交ぜられたロマンを描く弘兼の漫画に弄ばれたサラリーマンは多いのではないだろうか
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放蕩な父と商売上手な母

 弘兼憲史は1947年9月、山口県防府市で生まれた。いわゆる「団塊の世代」に当たる。「団塊の世代」の命名者である堺屋太一はこう書く。

 〈日本民族は、終戦直後の一九四七年から四九年にかけて、空前絶後の大増殖を行った。この三年間に生れた日本人は、直前よりも二〇パーセント、直後より二六パーセントも多いのである。通常ごく安定的な動きをする人口構造においては、これほどの膨らみはきわめて異常なものであり、経済と社会とに大きな影響を与える〉

(『団塊の世代』新版)

 弘兼家はもともと、現在の山口県岩国市美和町――中国山脈の小さな村に根を張った地主だったという。平家の落人が隠れ住んだ集落がその始まりともされている。十数年前、弘兼はかつての本家があった場所を訪れたことがある。倉や土塀が残っており、一帯の田畑を一望することができた。

 「見渡す限り、かつてはうちの畑だったらしいです。親父はそこの次男でした。親父の兄弟は男4人。全員大学に行っています。当時は頭が良くてもお金がなければ大学には行けない。それだけ経済力があったということでしょうね」

 弘兼の父は京都に出て、同志社高等商業学校、現在の同志社大学に進学した。卒業後は地元に戻り、化学工業メーカーの『徳山曹達』(現トクヤマ)に入った。この頃、長男が夭折(ようせつ)し、弟たちの学費が父にのし掛かってきたという。

 「徳山曹達の給料では一家を養えないというので、戦時中に北京に渡って仕事を見つけた。北京の日本語学校でお袋と知り合って結婚、姉が生まれたんです」

 戦時中、父は2度召集されている。「陸軍中野学校の教官をしていた大叔父から戦況を教えてもらい、うまく転戦させてもらって生き延びた」と、父が話すのを弘兼は聞いたことがある。大叔父は、出光興産を舞台にした小説『海賊と呼ばれた男』の登場人物、武知甲太郎のモデルとなった手島治雄(元・出光興産専務)である。この父親の話の真偽は不明だ。

 戦後、一家は命からがら日本に引き揚げてきた。農地改革で持っていた土地は全て失った。父は山口県防府市で友人と共に石油販売会社を立ち上げている。弘兼が生まれたのはこの頃だ。会社には野球ができるほどの広い庭があり、ドラム缶、巨大なガソリン給油機が置かれていたのを覚えている。地主の息子である父には放蕩(ほうとう)の気があった。

 「ぼくを自転車を観に行こうとか、馬を観に行こうとか言って連れ出す。要は地方競輪、地方競馬です。麻雀も好きでした。(麻雀卓を囲む)親父の膝の上に乗って、ぼくは酒のつまみを食べていた。それでお袋は台所で泣いているんです。なんで泣いているんだろうって思っていました」

 弘兼によると父親は、「インテリ臭っていうのかな、人を小ばかにするところがあった。絶対に出世はしないタイプ」であったという。商売は失敗、一家は逃げるように岩国へ移り住むことになった。

 「倒産を経験した家族らしくアパートの一室、二間の部屋に住んでいました。(米軍基地のある)岩国だから、クスリをやっているジャズマンが住んでいるようなアパートです。その当時、卵は高かった。卵1個を溶いて、姉と二人で食べていた。いつも姉が先にとるから半分以上は姉の茶碗に流れ込み、ずるいよって思っていた」

 豊浦郡阿川(現・下関市)の網元の娘だった母親は生命力が旺盛だった。夫に頼っていてはならないと考えたのだろう、米軍基地に近いビルの一角で呉服屋を始めた。これが当たり、弘兼家の財政はぐっと好転した。

 「お袋は商才があったんでしょうね。反物をいっぱい仕入れていたので、問屋にハワイとか地中海クルーズとかに連れて行ってもらっていました」

 販売成績上位者を対象とした旅行だろう。1950年代、国外に旅行できるのはごく限られた人間だった。パンアメリカン航空――パンナムの搭乗時にもらえる、青いロゴマークの入ったバッグが自宅に転がっていた記憶があるという。

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