東洋型行動経済学が出てきてもいい

富永 なるほど。ちょっと話が脱線するんですけれども、「最後通牒ゲーム」というゲームがよく行動経済学で取り上げられます。まず前野先生が私に「このお金を誰かと分けなさい」と私に1万円を預ける。私は分配比率を決められるが、相手がその比率を拒否したら分配は成立せず、1万円を前野先生に返さないといけない。そのとき、私はどんな分配比率を提案するのがよいか、という問題です。これは合理性を前提とする古典的経済学の考え方だと「1円を提示する」のが正解ですけど、相手は断るよねという話です。

 これを行動経済学的に説明すると、相手は1円でも手に入れたほうが合理的なのにもかかわらず、分配比率の不公平感からその機会をみすみす放棄するという非合理的行動を取るのだと。これが人間の非合理性のエビデンスだという言い方をするんですが、今おっしゃったエンドルフィン型やオキシトシン型みたいなことを援用すると、もしかしたら断ることによってエンドルフィンが出てくるから断る、みたいな言い方もできるのでしょうか。

前野 今おっしゃったようなことは、報酬系ホルモン、ドーパミンのほうが関係しているかもしれないですね。ドーパミンは何かを得ると短期的な幸せが得られるホルモンで、オキシトシンやセロトニンはもっと長期的な幸せ。ドーパミン・エンドルフィン型というと近いかもしれないですね。

富永 なるほど。私が行動経済学の中でちょっと説明力に乏しいなと思うことが、合理性と人間の直感的選択を対比して、「損得という物差しから見るとおかしいから非合理的」というふうにばっさり断じてしまうところなんですよね。でも生物としての正当性とか理由があって直感的な意思決定をしているはずで、それを説明する脳的な作用やホルモン的な作用があるんじゃないかと思っているんです。今そのヒントをいただいたのかなと思ったんですが、期待が過ぎましたかね。

前野 いや、そういう部分もあると思います。行動経済学はもともと個人主義が強い欧米で発達しているので、人間はエゴイスティックで、自分の利益のために動くものだという仮定の下にできたという背景があります。個人的にはここにちょっと違和感を覚えるんです。現代では多くの学問が個人主義的な欧米の考え方を基盤にしているので、日本のような集団主義的な視点、すなわち、自分を犠牲にしてでも他人や全体としての繁栄のために尽くすということを合理的に考えようとする視点が抜けがちだと思うんですよ。

 でもゲーム理論でも自分のことばかり考えるんじゃなくて、全員として一番得するのはこうだよねという視点をもっと考慮すると、東洋型行動経済学みたいなものがもっと出てきてもいいはずですし、それにはオキシトシンやセロトニンの作用、つまり「利他の視点」も重要になってくると思います。欧米の利他は「いいことをしておくと天国に行ける」「いいことすると自分に戻ってくる」というロジックが根底にあると思うんですけど、集団主義は自分よりも全体の繁栄のほうが大事だという基盤があります。日本は個人主義と集団主義のちょうど間くらいの国です。行動経済学は、集団主義的な利他性を考慮すべきだと思いますね。

富永 先生が欧米と日本の違いに言及されたのでちょっとチャレンジングな質問をしますが、個人的にいつも違和感を覚えることが、同じ人間なのに日本人はとか欧米人はという主語の設定がなぜ成り立つのだろうかと。確かに歴史や分野によって内在する論理は異なることがあるとは思いますが、幸せみたいな人間にとって根源的な部分がそんなに違うのかがちょっと不思議なんですけれども、この点はどう思われますか。

前野 僕は専門家ではないですが、文化心理学の中に個人主義と集団主義という先ほど申し上げた考え方があって、ある種の調査によると、そこの差異は大きいことが分かっています。

 人間は集団主義にも個人主義にも、あるいは全体主義にも適応できるんですよ。だから日本人が特殊というよりも、日本は文化的背景によって何千年も集団主義的だったところに西洋的な価値観が入ってきて、集団主義と個人主義がちょうど半々くらいの希有(けう)な国になったと思うんです。あくまで平均値の議論ですが。

 気を付けていただきたいのは、「日本人は親切だよね」といったことを僕は省略して言っていますけど、日本人の平均値は外国人よりも親切な傾向があるという統計データで論じているのであって、ステレオタイプとは似て非なるものだということはお伝えしておきたいです。

富永 人の価値観や幸せ感を形成しているものは複雑な構造をしていて、その人が持って生まれた価値観や生まれ育った環境、教育などいろいろな要素によって複合的に形成されるが、そうは言ってもその人が住んでいる地域の文化やノーム(基準、規範)が大きいという理解でよろしいでしょうか。

前野 はい。それなりに大きいということです。ステレオタイプに平均値だけで論じることはある種の問題をはらんでいますが、平均値で論じることで国家の平均像の違いは比較できるということです。

<第2回に続く>