明智光秀を主人公としたNHK大河ドラマ『麒麟(きりん)がくる』が放送を開始した。戦国武将たちの生き残りの知恵は現代の侍(=ビジネスパーソン)にも学びが多い。光秀の謀反失敗から分かるのは、人々に共感を与えるビジョンを持つことの大切さだ。第1回に続き歴史家、乃至政彦氏に聞いた。
歴史家
旧秩序の破壊者ではなく、「普通の人」だった信長
旧秩序の破壊者として現代のビジネスパーソンから人気が高い信長だが、その人物像も最近では見方が変わってきている。
「信長には具体的な政治理念があったわけでもなければ、旧秩序を破壊して新しい世の中をつくりたかった改革者というわけでもありません。ただし、信長は英雄にはなりたかった。ルイス・フロイス(イエズス会宣教師)もその名誉心の強さを指摘しており、自分の名前が永遠に残るためなら努力を惜しまなかった。その精神性は、ごく普通の伝統的な日本人と同じで、秩序を愛しかつ滅私奉公が好きだったのだと思います。だから信長は室町幕府の再興を成し遂げた英雄になりたいと望んだのですが、足利義昭が選ぶべき相手を間違えて反信長派と手を組んでしまった。その後、信長は京都に取り残された義昭の息子を『若君』として大切に保護し、室町幕府の再興を目指し続けていたと私はみています」
信長自身に領土的な野心はあまりなかったが、足利義昭の側についた反信長派の戦国武将たちの攻撃に対抗し、自衛のために反撃をしていく中で、結果として領土が増えてしまったという側面があると歴史家の乃至政彦氏は考える。
その戦いの中で明智光秀(1575年からは「惟任光秀」に改名していた)は、次々と戦功を立て行政官としても手腕を発揮。並み居る織田家臣団の頂点に近い地位まで上り詰めながら、1582年に突然、反旗を翻し主君・信長を本能寺で襲撃した。天下を掌中にしたかに見えたのもつかの間、羽柴(豊臣)秀吉との戦いに敗れ、落ち武者狩りに遭って最期を迎えた。
「本能寺の変」に黒幕はいない
なぜ光秀は謀反を起こしたのか、日本史上最も有名なクーデターであり最大のミステリーの一つとして、今も多くの人を引き付けるテーマだ。その動機を巡っては、短気な信長から足げにされるなどいわれなきパワハラを受けたことによる「怨恨」説から、光秀の背後には信長を倒して幕府の再興を目指す足利義昭や信長の増長を恐れる朝廷などの「黒幕」がいるとする説まで多くの見解がある。
しかし、乃至氏は、「本能寺の変は解けないミステリーではなく、単なる事故のようなものでしょう」と話す。
乃至氏が「本能寺の変」を単なる事故とみる理由は何か。「信長からの虐待があったとよく言われます。いくつもの史料にそういう記述が見受けられるので、実際にあったことなのでしょう。また信長の四国政策転換にも不満がありました」
四国政策の転換とは、光秀が奔走して友好関係を結んでいた土佐(現在の高知県)の長宗我部元親に対し、信長は三男の信孝に長宗我部討伐のため四国出兵を命じたことだ。
「光秀は顔に泥を塗られた形ですが、これらはあくまでも不満であって、謀反の動機とまでは言えません。部下が上司のやり方に不満を持つのは現代でもあることでしょう。直接の理由は、信長が無防備になったことです。信長を倒した後、すぐに京都を制圧して、自分が政治の主導権を握りやすい立場にあったことで決断したのだと思います」
このとき光秀は畿内一帯の軍事指揮権を掌握。たまたま柴田勝家や秀吉など主だった織田の重臣はそれぞれ各地の討伐や鎮定へ出向き京都周辺にいない。
「光秀は戦国の申し子。たった1人の従者しかいない身から数万の軍の指揮権を握るまでに成り上がった英雄です。自らの実力に誇りと自信があった。そのときに信長は油断して少数の側近と本能寺にいた。ただ、そこを突いただけだと考えられます。もしもほかの武将が数多くの兵を率いて京都にいたら謀反には踏み切らなかったはず。そういう意味で、偶然の連鎖で起きた事故と言えるのではないでしょうか」
信長打倒の「大義」を示せなかった光秀
政変を成功させながら、いわゆる「三日天下」。正しくは10日余りで光秀は滅んでしまう。
「敗因は、織田一族を生け捕りにできなかったことです。信長は炎に包まれた本能寺で自害し、その後継者である長男の信忠も二条新御所で抗戦して戦死。仮に信忠や三法師(信忠の子で信長の孫)を捕虜にしておけば、かいらいとして扱うシナリオもあったはずです。しかし、当時、京都にいた信長の一族は信長や信忠のように討ち死にする者と、逃げ足の速い者(信長の弟、織田有楽斎)ときれいに二分されて、光秀に投降する者はいませんでした」
さらに致命的だったのは、長年の盟友であり、主従関係でもあり、娘・玉子(細川ガラシャ)が嫁いだことで姻戚関係にもなっていた細川藤孝・忠興親子を味方につけられなかったことだ。同じく光秀の指揮下に入るはずの筒井順慶も秀吉陣営にくみした。
「光秀は本能寺の変の後、世の中をどう変えるのか。何も訴えていません。政治に対する理想とか、これといったビジョンがなかったのでしょう。『大義』はどちらに味方をしようかというときに大きな意味を持ちます。光秀の大義のなさに対し、秀吉には主君の敵を討つという大義があった。だから、光秀を倒す側に信長の遺臣たちが続々とついたのです」
いつの時代にも多くの人に共感されるビジョンがあるかどうかが、成否を分ける。それは戦国の時代も今も変わらないと考えると興味深い。
光秀の魅力
光秀は、丹波・福知山(現在の京都府福知山市)で街の発展の基礎を築くなど為政者としても優秀だっただけでなく、朝夕の米にも事欠く牢人(浪人、主従関係を失った侍)時代に、接待のため妻が黒髪を売って費用を捻出した、といった心温まる逸話も残る。
「逸話の真偽には疑問が残りますが、庶民に親しみやすい逸話が伝わるということは、そういう人物像が定着するほど慕われていたのでしょう。『本能寺の変』という暴挙に出なければ、名将中の名将として名を残していたかもしれません」
人の心を読む能力にたけ、最新の軍事技術や上流階層に通じるための教養の習得努力も怠らなかった光秀は、信長に全身全霊をささげて仕え、その実力を信長にも認められていた。しかし、最後は己の力だけを頼りに勝負に出て敗れた。激しくもはかない生涯をNHK大河ドラマ「麒麟がくる」はどう描くのか。そうした視点からドラマを楽しむことは、ビジネスパーソンとしての生き方を考える上でも参考となるのではないだろうか。
『信長を操り、見限った男 光秀』(河出書房新社)
明智(惟任)光秀の生涯を追いながら、本能寺の変の背景と光秀の真意に迫る。「天下取りの野望を持たない信長に転機をつくったのは光秀だった」など、豊富な史料の積み重ねで信長や光秀の旧来の人物像を覆している。