明智光秀を主人公としたNHK大河ドラマ『麒麟(きりん)がくる』が2020年1月19日に放送を開始する。明智光秀を始めとした戦国武将たちの生きる知恵は現代の侍(=ビジネスパーソン)にも参考になるはずだ。気鋭の歴史家、乃至政彦氏に光秀から現代人が学ぶべきことを聞いた。

織田信長(左)と明智光秀。信長に仕えた期間はわずか10数年だが、異例の出世を遂げた(イラスト/伊野孝行)
織田信長(左)と明智光秀。信長に仕えた期間はわずか10数年だが、異例の出世を遂げた(イラスト/伊野孝行)
乃至政彦(ないしまさひこ)氏
乃至 政彦(ないし まさひこ)氏
歴史家
1974年、香川県生まれ。主な著書に『平将門と天慶の乱』(講談社現代新書)、『戦う大名行列』(ベスト親書)、『信長を操り、見限った男 光秀』(河出書房新社)など。気鋭の歴史家として注目されている。NHK総合『歴史秘話ヒストリア』、BS-TBS『諸説あり!』などテレビにも出演。

 明智光秀といえば一般的なイメージは、美濃(現在の岐阜県)の名門豪族土岐氏の流れをくむ明智氏の一族であり、和歌にも長(た)け文化的素養を備えた戦国武将。信長の下で次々と戦功を立てながらも伝統的な権威を尊重しない主君・織田信長に次第に反発。ついには「本能寺の変」で主君を討った天下の謀反人といったところだろう。

生まれも育ちも謎に包まれた明智光秀の前半生

 しかし、「その前半生は謎に包まれています。本能寺の変を起こした1582年に享年67歳(1516年生まれ)とする説の他、55歳(1528年生まれ)説、52歳(1531年生まれ)説などがあり、生まれた年も、出生地も実は明らかではありません」。そう話すのは、『信長を操り、見限った男 光秀』(河出書房新社)の著者で歴史家の乃至政彦氏だ。

 「明智一族自体は足利幕府の重臣に連なる名門ですが、光秀は美濃・明智氏の嫡流であれば受けるはずの恩恵を何も受けていません。居城を継承しておらず、室町幕府から奉公衆(将軍直属の軍事を担当する官僚)としての待遇も受けていない。さらに光秀には複数の系図が伝わり、どれも父親の名前が異なるなど、高い身分の出身ならあり得ないことです。明智氏の一族の出ではあるものの、分家の分家。末端の出身だったのでしょう」

「明智」の名字もあっさり捨てる

 後に光秀は信長から「惟任」(これとう)という名字を与えられた。以降、名乗りを惟任日向守光秀に変えている。「明智に固執することなく、あっさり名字を変えていることからも、名門・明智一族の中で、本流だったわけではないと考えられます」

 そんな無名の人物・光秀が、40歳(1528年生まれだった場合)になろうかというころに歴史の表舞台にこつ然と登場する。どうやって異例の出世を成し遂げたのだろうか。

信長は戦場で細かい指示を出さず、部下たちの意欲と才覚に任せた。いわば「丸投げ」体質で、結果を出せるかがすべてだった。実力主義の信長の下での仕事は、常に結果が求められるプレッシャーがあったが光秀には肌が合っていたのだろう(イラスト/Shutterstock)
信長は戦場で細かい指示を出さず、部下たちの意欲と才覚に任せた。いわば「丸投げ」体質で、結果を出せるかがすべてだった。実力主義の信長の下での仕事は、常に結果が求められるプレッシャーがあったが光秀には肌が合っていたのだろう(イラスト/Shutterstock)

リアリスト・光秀の誕生

 光秀が生きた時代の美濃は、激しい下克上を繰り返していた。光秀は一時期、後世に「美濃のマムシ」という異名で知られる斎藤道三に仕えていたが、その息子である義龍に追われて牢人(浪人、主従関係を失った侍)となり越前(現在の福井県)に流れ着いている。

 「斎藤道三は守護・土岐氏を追放し国盗りをなしましたが、息子によって国と命を盗られています。このとき光秀はことの顛末(てんまつ)を観察して、常に最適解を見いだして動かなければ、あっという間に衰亡することを見せつけられました。後にルイス・フロイス(ポルトガルのイエズス会宣教師)は 光秀を『裏切りや密会を好み、刑を科するに残酷で、独裁的でもあったが、己を偽装するのに抜け目がなく、戦争においては謀略を得意とし、忍耐力に富み、計略と策謀の達人であった』と評しています。陰謀を多用した斎藤道三から学び得た手段であり、美濃時代に培った処世術だったのでしょう」

 信長に仕えた後の話になるが、比叡山の焼き打ちで最も活躍したのは光秀だったと考えられている。光秀は上司の意向を酌んで期待に応えることを常に実践し、スピード出世を遂げていくことになる。

あきらめない光秀の強さ

 流れ着いた越前で光秀は朝倉義景に庇護(ひご)を求め、領内の称念寺(福井県坂井市)の門前で10年近くの歳月を過ごす。

 「当時の光秀は朝夕の米にも事欠くほど厳しい生活。まともな俸禄も無く、従者が1人しかいない『一僕の身』です。侍なら当たり前に乗っているはずの馬すら持っていませんでした」。通常なら侍たちの立身出世レースに参加する権利さえない立場だが、光秀は上昇志向を持ち続けた。

 「光秀は乱世という時代をよく見極めていました。城主たちは能力ある武士や足軽を求めており、そこで武功を上げて自分の実力を見せようとした。朝倉氏では出世の糸口となる合戦もあまりないため、他人の戦場に自分から参戦して武勲をたてて稼ぎを得る傭兵生活に身を投じたと考えられます」。紛争が多い近江(滋賀県)ヘ出稼ぎにいくうちにある城主と顔なじみになったのであろう。城主の娘を妻にしている。そのバイタリティーは計り知れないものがある。

学んだ知識の出世への生かし方

 その近江で飛躍のきっかけが訪れる。室町幕府第13代将軍・足利義輝が暗殺されると、細川藤孝らが将軍の弟・義秋(後の15代将軍、足利義昭)を擁立し近江に仮御所をたて室町幕府の再興を諸国大名に働きかけた。そこである幕臣の目に光秀が留まった。具体的には、医学の知識を学び、それを幕臣の1人に伝えたのだ。

 「当時、医学は専門家が一族や仲間内で教え合って使う技術であり秘伝。光秀は称念寺での僧たちとの交流を通じて学び得た医学の知識を、惜しみなく幕臣の1人に口伝(くでん、口頭で伝えること)することで、自分の存在や力を幕臣たちに売り込んだのです。光秀と彼らはここに同志としての結びつきを強めたことでしょう」

 これをきっかけに足利義昭らが越前に入った後、光秀は幕府の重臣、細川藤孝の下で働くことになる。努力を怠らず自己研さんしていたから、タイミングを逃すことなく自分を売り込むことができた。後に藤孝は、義昭上洛のための挙兵に動こうとしない朝倉義景よりも信長を頼りたいと考える。道三の娘・濃姫が信長の妻となっていることから、光秀が仲介役を買って出たのだろう。藤孝の使者となって義昭と信長の橋渡しを行い、信長・義昭とともに上洛を果たした。義昭は15代将軍に就任する。

 「光秀は、幕臣・細川藤孝を新たな仕官先として見いだし、その家中へ移籍。やがて、義昭上洛の過程で信頼を勝ち得ていた信長とも主従のような関係を結びます。忍ぶときは忍び、動くときは即座に決断する。機を見るに敏な光秀の変わり身の早さは一つの芸当と言っていいでしょう」

 土岐頼充(美濃の有力武将)→斉藤道三→朝倉義景→細川藤孝→織田信長と仕える相手を変えながら、自分の力を認めてくれる相手を探した光秀。後にかつての主、細川藤孝は光秀の傘下に入るが強い絆で結ばれ、「本能寺の変」までは関係が壊れることはなかった。光秀には人情の機微をつかむ能力も備わっていたのではないだろうか。

信長に見た夢

 次々に仕える相手を変えていく中で、光秀はなぜ信長に賭けようと思ったのだろうか。

 「時代がどれだけ乱れても、みな平和と安定を求める。光秀はそこに人間の本質、時代の本質があると考えて、信長に平和な世を作る力を感じていたのではないでしょうか。現代でも、私利私欲ではなく社会にどう貢献できるのか明確に示すことができる経営者のもとには優秀な人材が集まりますよね。これと同じことです」

勉強熱心で上司への報告は丁寧

 信長が、いくら出自にかかわらず実力次第で家臣を重用する合理主義者とはいえ、光秀はいわば中途採用のうえ、実務経験も実は無い(それまで部隊を指揮した経験も領地を治めた経験も無かった)。信頼を勝ち得て、「近畿管領」(政治経済の中枢である近畿方面軍の司令官的な存在)と後世の人々が評する地位まで上り詰めることができたのはなぜか。

 「信長にしてみれば、光秀はどんな仕事もいとわずにやってくれるかわいい部下。築城にも詳しく、光秀は大軍を指揮した実績が無いからこそ、勉強熱心になれたのでしょう。信長在世中の織田家家臣団で新しい軍制(軍隊の編成と軍規)に取り組んだ形跡があるのは、史料上では光秀一人。しかも彼の軍隊編成は、当時最先端にあった東国の用兵思想に基づく新式の軍法でした。戦国屈指の兵学者だったと評することもできます」

 信長が何を望んでいるかを読み取るかのように詳細な報告書を提出する気配りのよさもある。その戦況報告を信長は「内容が具体的で目の前で見ているようだ」と激賞している。

努力の人・光秀

 故郷を追われた一僕の牢人としてのどん底生活から、織田信長の下で「近畿管領」とも例えられる大大名にまで出世できたのは、光秀が時流を読み、身を立て直すための努力を怠らなかったからだ。あらゆる上司から学べるものは学び自分の力を信じてチャンスが来るまであきらめない。上昇志向を持ち続け、自分に足りないと思ったものは勉強で補い、これだと思った相手に惜しみなく尽くした。誠意で向き合うべき時は、得意の奇策を捨てて、徹底的な正攻法で自分を売り込み、出世街道を駆け抜けていくことになる。


自分を売り込む天才・明智光秀の出世術(前編)(画像)

『信長を操り、見限った男 光秀』(河出書房新社)
明智(惟任)光秀の生涯を追いながら、本能寺の変の背景と光秀の真意に迫る。「天下取りの野望を持たない信長に転機をつくったのは光秀だった」など、豊富な史料の積み重ねで信長や光秀の旧来の人物像を覆している。


後編へ続く