信長は戦場で細かい指示を出さず、部下たちの意欲と才覚に任せた。いわば「丸投げ」体質で、結果を出せるかがすべてだった。実力主義の信長の下での仕事は、常に結果が求められるプレッシャーがあったが光秀には肌が合っていたのだろう(イラスト/Shutterstock)
信長は戦場で細かい指示を出さず、部下たちの意欲と才覚に任せた。いわば「丸投げ」体質で、結果を出せるかがすべてだった。実力主義の信長の下での仕事は、常に結果が求められるプレッシャーがあったが光秀には肌が合っていたのだろう(イラスト/Shutterstock)

リアリスト・光秀の誕生

 光秀が生きた時代の美濃は、激しい下克上を繰り返していた。光秀は一時期、後世に「美濃のマムシ」という異名で知られる斎藤道三に仕えていたが、その息子である義龍に追われて牢人(浪人、主従関係を失った侍)となり越前(現在の福井県)に流れ着いている。

 「斎藤道三は守護・土岐氏を追放し国盗りをなしましたが、息子によって国と命を盗られています。このとき光秀はことの顛末(てんまつ)を観察して、常に最適解を見いだして動かなければ、あっという間に衰亡することを見せつけられました。後にルイス・フロイス(ポルトガルのイエズス会宣教師)は 光秀を『裏切りや密会を好み、刑を科するに残酷で、独裁的でもあったが、己を偽装するのに抜け目がなく、戦争においては謀略を得意とし、忍耐力に富み、計略と策謀の達人であった』と評しています。陰謀を多用した斎藤道三から学び得た手段であり、美濃時代に培った処世術だったのでしょう」

 信長に仕えた後の話になるが、比叡山の焼き打ちで最も活躍したのは光秀だったと考えられている。光秀は上司の意向を酌んで期待に応えることを常に実践し、スピード出世を遂げていくことになる。

あきらめない光秀の強さ

 流れ着いた越前で光秀は朝倉義景に庇護(ひご)を求め、領内の称念寺(福井県坂井市)の門前で10年近くの歳月を過ごす。

 「当時の光秀は朝夕の米にも事欠くほど厳しい生活。まともな俸禄も無く、従者が1人しかいない『一僕の身』です。侍なら当たり前に乗っているはずの馬すら持っていませんでした」。通常なら侍たちの立身出世レースに参加する権利さえない立場だが、光秀は上昇志向を持ち続けた。

 「光秀は乱世という時代をよく見極めていました。城主たちは能力ある武士や足軽を求めており、そこで武功を上げて自分の実力を見せようとした。朝倉氏では出世の糸口となる合戦もあまりないため、他人の戦場に自分から参戦して武勲をたてて稼ぎを得る傭兵生活に身を投じたと考えられます」。紛争が多い近江(滋賀県)ヘ出稼ぎにいくうちにある城主と顔なじみになったのであろう。城主の娘を妻にしている。そのバイタリティーは計り知れないものがある。

学んだ知識の出世への生かし方

 その近江で飛躍のきっかけが訪れる。室町幕府第13代将軍・足利義輝が暗殺されると、細川藤孝らが将軍の弟・義秋(後の15代将軍、足利義昭)を擁立し近江に仮御所をたて室町幕府の再興を諸国大名に働きかけた。そこである幕臣の目に光秀が留まった。具体的には、医学の知識を学び、それを幕臣の1人に伝えたのだ。

 「当時、医学は専門家が一族や仲間内で教え合って使う技術であり秘伝。光秀は称念寺での僧たちとの交流を通じて学び得た医学の知識を、惜しみなく幕臣の1人に口伝(くでん、口頭で伝えること)することで、自分の存在や力を幕臣たちに売り込んだのです。光秀と彼らはここに同志としての結びつきを強めたことでしょう」

 これをきっかけに足利義昭らが越前に入った後、光秀は幕府の重臣、細川藤孝の下で働くことになる。努力を怠らず自己研さんしていたから、タイミングを逃すことなく自分を売り込むことができた。後に藤孝は、義昭上洛のための挙兵に動こうとしない朝倉義景よりも信長を頼りたいと考える。道三の娘・濃姫が信長の妻となっていることから、光秀が仲介役を買って出たのだろう。藤孝の使者となって義昭と信長の橋渡しを行い、信長・義昭とともに上洛を果たした。義昭は15代将軍に就任する。

 「光秀は、幕臣・細川藤孝を新たな仕官先として見いだし、その家中へ移籍。やがて、義昭上洛の過程で信頼を勝ち得ていた信長とも主従のような関係を結びます。忍ぶときは忍び、動くときは即座に決断する。機を見るに敏な光秀の変わり身の早さは一つの芸当と言っていいでしょう」

 土岐頼充(美濃の有力武将)→斉藤道三→朝倉義景→細川藤孝→織田信長と仕える相手を変えながら、自分の力を認めてくれる相手を探した光秀。後にかつての主、細川藤孝は光秀の傘下に入るが強い絆で結ばれ、「本能寺の変」までは関係が壊れることはなかった。光秀には人情の機微をつかむ能力も備わっていたのではないだろうか。