統一超商の社長として30社以上、海外も合わせれば50社近くの流通関連企業を誕生させることで、台湾の流通経済の発展に寄与した徐重仁。彼はどのようにしてセブン―イレブン事業の急成長と同時に多角化の取り組みをスタートさせたのか。その経営手法に迫る。(本文敬称略)
1986年から事業多角化を見据えていた
徐が「台湾の流通の父」と呼ばれたのは、欧米や日本に比べて経済発展が遅れていた三十数年前の台湾に、当時の小売事業の最先端だったセブン―イレブンという近代的な流通ビジネスを導入し、約5000店舗にまで成長させ、流通経済の発展に貢献したからだ。それだけでも「台湾の流通の父」の名にふさわしい功績だが、この呼称の理由はもう1つある。
徐はコンビニエンスストア事業の他にも、物流や金融、コンサルティングなどを含め、台湾で33社、中国やフィリピンなど海外を加えれば48社もの流通やそれに関連する企業を設立した。併せて各社のかじを取る社長や副社長、重役といった経営者を何十人も輩出したことで、台湾の流通経済をけん引した。
「私はセブン―イレブン事業が黒字転換した1986年ごろから、将来的には多角化へ踏み出そうと考えていました」
そう振り返るように、徐が事業の多角化を決意したのは統一超商が再び独立し、社長の座に就いてすぐのときだった。事業家として優れた先見性を誇る徐は、100号店をオープンした当時、「このままセブン―イレブンが増え続け、他社のコンビニも追従してくれば、いずれ台湾のコンビニ市場は飽和状態になる」とみていた。
しかし、徐が本格的に事業の多角化に乗り出したのは、94年8月に「樂清服務(ダスキンサーヴ)」を設立し、同年12月に清掃用品のレンタル・販売事業「DUSKIN SERVE 100」を始めてからだ。
なぜ、86年に事業多角化の必要性を感じていたにもかかわらず、実際に動き出すまで8年もかかったのか。その理由は、多角化に取り組む前にどうしてもクリアしておかなければならない条件があったからだ。
巨大な敵に勝てる数まで兵隊を増やす
5年間の留学で日本の小売業を研究した徐が、台湾に戻って始めたいと思ったビジネスは「スーパーマーケット」だった(関連記事:「『カリスマ経営者』との運命的な出会い サラリーマン社長が誕生」)。しかし、伝統市場で買い物をする台湾の一般庶民には「スーパーのような大規模な店より、セブン―イレブンのような小さな店を増やすほうが成功率は高い」と考えた。
徐の読みは見事に当たった。ただし、事業を軌道に乗せるには1店舗当たりの売り上げが小さいため、店舗数を短期間で増やす必要があった。
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