「台湾に流通経済を発展させる」という私の夢の源泉は日本での留学生活にあった――と“台湾の流通の父”の徐重仁は言う。発展途上の台湾から海外へ渡る学生は少なく、留学先は米国が多かった時代、なぜ徐は日本を選んだのか。そこには日本統治下で生まれ育った両親の影響が色濃く反映されていた。(本文敬称略)

2歳か3歳の頃の徐重仁(写真右)。左は次兄の徐重博
2歳か3歳の頃の徐重仁(写真右)。左は次兄の徐重博

日本の教育を受けた苦労人の父

 徐重仁が日本に興味を持った理由は、両親、とりわけ父・徐水林(すいりん)の生い立ちと深く関係している。

 1894年、日清戦争が始まり、翌年の下関条約で清朝は台湾と澎湖列島、遼東半島を日本に割譲。台湾が日本(台湾総督府)の統治下に入って7年後の1912年、中南部に位置する嘉義(かぎ)の新港で徐水林は生まれた。幼い頃に両親を亡くし、親戚の家で育った水林は、台湾籍児童が通う「公学校」(日本人は「小学校」)で教育を受けた。

 「当時の台湾の庶民の子どもは、中学や高校にはなかなか行けなかった」と徐が言うように、水林も中学には行かずに働き始めた。しばらくして、10代の水林は台湾南部の高雄の漁港に移り、出港前の漁船に食料や飲料などの必要な物資を準備して販売する商売を始めた。

 37年、盧溝橋事件が起こり、日本と中華民国は交戦状態に入る。台湾人も“日本の軍属”として動員され始めた頃、25歳の水林は、知人に仕事を紹介され、台南市に移り、中心街の周縁にあった一軒家「南書店」の店員となった。

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