赤字続きで資本金約2億元を使い果たしたセブン―イレブン事業立ち上げの敗因の1つは、小売り・流通市場の成熟度の違いを考慮せず、日米から学んだ出店戦略をそのまま実行したから。ラストチャンスで徐重仁が投じた一手は「台湾にローカライズしたオリジナルの出店戦略」だった。(本文敬称略)

日本で学んだやり方が通用しない……。いきなり厳しい局面を迎えた徐重仁のセブン―イレブン事業 ※画像はイメージ(写真提供:Svetlana Chekhlova/Shutterstock.com)
日本で学んだやり方が通用しない……。いきなり厳しい局面を迎えた徐重仁のセブン―イレブン事業 ※画像はイメージ(写真提供:Svetlana Chekhlova/Shutterstock.com)

左遷先で出店戦略の敗因の分析を続ける

 前身の統一超級商店14店舗同時出店も含めて、徐の最初のセブン―イレブン出店計画は失敗に終わった。理由の1つは前回説明したように、徐が日本から学んだ「都市部エリアへの集中的な出店」という戦略を実行できなかったからだが、実はもう1つあった(関連記事:「日本から学んだ『コンビニ出店戦略』で起死回生の大逆転」)。日本から学び、米国の本部からも指導された出店戦略がほとんど機能しなかったのだ。米国や日本のやり方をそのまままねてしまったから、言い換えれば日米から取り入れた出店戦略を、台湾の実情や条件に合わせてアレンジしなかったからである。

 1979年5月の14店舗同時出店の準備段階で、徐は日本と米国の出店戦略を徹底的に研究した。日本でも米国でも住宅街を中心に出店がなされていた。徐は日米の出店状況にならってターゲットを地元の主婦層に設定し、大勢の人々が行き交う大通りではなく、そこから1本奥に入った路地、あるいは住宅の近辺の商店街を中心に店舗を展開していった。大通りから離れた場所であるため、地代や賃料が安く、出店コストを抑えられるのも魅力だった。

 「当時、住宅地や大通りから離れた場所には今ほどたくさんの店がなかった。ですから、店を出すこと自体は地元の人たちからも非常に評判が良かった」

 しかし、評判の良さとは裏腹に、売り上げは一向に伸びなかった。

 同年10月に米サウスランド社からセブン―イレブンのライセンスを取得後、同社から指導された出店場所の条件もほとんど同じだった。そのため統一超級商店からセブン―イレブンに切り替わってからも、主婦層をメインのターゲットとして住宅地や近くの商店街への出店を継続した。

 結果、セブン―イレブン事業は赤字続きで、約2億元の資本金が底をついた82年11月、統一超商は解散し、徐は親会社の統一企業が経営するパン工場に左遷された。

 しかし、徐は諦めなかった。いつか再び、セブン―イレブン事業に戻れる日が来ると信じていた。そこで、セブン―イレブンの現場から離れてからもプライベートの時間を使い、なぜ事業が失敗したのか、その理由の検証と分析を続けた。

“市場が成熟した国”の戦略は台湾で通用しない

 立ち上げたばかりのセブン―イレブン事業で赤字が続いたのは、当然、多くの店で売り上げが増えず利益を得られなかったから。その原因は、想定した事業計画よりも来店客数が少なかったことにある。

 では、なぜお客が来なかったのか。徐は考えに考え抜いて、1つの結論に達した。

 「米国や日本のセセブン―イレブンのビジネスモデルはしっかり理解していました。ただ、小売り・流通市場の成熟した国で成功しているビジネスモデルが、市場の未成熟な台湾にそのまま通用するはずがなかったんです」

 当時の台湾でセブン―イレブンと商品ラインアップが近い競合は、地元で親しまれてきた家族経営の小さな雑貨店だった。米国を手本とした台湾のセブン―イレブンの店舗は、小ぎれいかつおしゃれにデザインされていた。知名度が低く、なじみもないことに加え、その洗練された店舗デザインが、当時の台湾の消費者に敷居が高い印象を与えていた。

 「ですから、みんな『昔ながらのお店のほうが安いし入りやすい』と言って、商店街や市場の雑貨屋さんに行ってしまった」

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