伝説のクリエイターたちの軌跡。いま一度、大衆の心を動かした「創り人」の仕事に迫る。小林亜星編の最終回は、「ワンサカ娘」でCM界の売れっ子となり、歌謡曲「北の宿から」で140万枚を売り上げるまでの物語。2020年に88歳で死ぬことになっていると話す小林は「未練はない」と言い切る。
■ INDEX
第1回 2019.10.25公開
和製ジャズに心を奪われ、激怒の父にギターを奪われた少年時代
第2回 2019.11.01公開
才気ある友との出会い、バンド再結成、そして放蕩の味を知る
第3回 2019.11.08公開
狼少年ケン、魔法使いサリー 背中押されアニメ音楽へ
第4回 2019.11.15公開
アニメ、CM、歌謡曲 テレビ時代の申し子に未練なし
“カッコいい”音楽を生み出す、時代の寵児に
小林亜星をテレビコマーシャルに導いたのは妹、みづえだった。彼女は女子美術大学を卒業後、レナウンの宣伝部で働いていた。
「今度、レナウンもコマーシャルソングを作ろうじゃないかって話になった。そうしたら妹が、うちの兄貴もそんなことをやっているよって言った。全然嘘。全くやっていなかったのに。それで作らなきゃいけなくなった」
複数の作曲家を検討したのではなく、最初から小林が作ることに決まっていたのだ。
小林は「亜星流!―ちんどん商売ハンセイ記」(1996年、朝日ソノラマ)の中で、レナウン宣伝部の今井和也と銀座にある“美人喫茶”で待ち合わせしたと書いている。美人喫茶とはハイヒールを履いた妙齢の女性がウエートレスをしている喫茶店である。当時、小林はこの美人喫茶を気に入っていた。
〈初めて会うのにとんでもないところを待ち合わせ場所に選んでしまったと、後悔していました。
やがて現れた今井氏に、僕は「コマソンはつくったことがないんです」と正直に言いました。今井氏は困った顔をしていましたが、それでも気を取りなおしたように「何曲かつくって聞かせてください」と言ってくれたのでした〉(「亜星流!」より)
この当時のコマーシャルソングは童謡調、あるいはシャンソン調がほとんどだった。小林の頭にあったのは、当時の人気歌手・坂本九が使い始めていた「カッコいい」という言葉だった。他のコマーシャルソングは、小林の中では「カッコ悪い」ものだった。自分の感覚で「カッコいい」ものを作れば、同年代の人間たちに受け入れられるはずだった。小林はアメリカンポップス調の曲を作ろうと考えていた。
美人喫茶で今井と話をした3日後のことだ――。
新宿駅西口で買い物を済ませて、家に戻ろうとしてるとき、帰宅途中の女性たちの群れに出くわした。そのとき突如、頭の中にフレーズが浮かんできた。
――ワンサカワンサ イェーイイェーイ
「それで作ってみたら、みんなが気に入ってくれた。それが僕にとって最初の(テレビ)コマーシャルソング」
昭和39(1964)年6月録音、弘田三枝子が歌う「ワンサカ娘」である。
この4カ月後の10月に東京オリンピックが開催されている。日本中が敗戦からの復興をかみしめていた時代だった。生活は豊かになり、必需品以外の出費に割く経済的余裕が生まれていた。軽快なリズム、「ワンサカワンサ」というフレーズはオリンピックに向けて高揚していた空気を投影していた。
小林は「亜星流!」で〈そのころのレナウンは鎌倉河岸にあって、さほど大きくもないメリヤス問屋でした〉とも表している。時代の流れに乗ろうとしている企業の思い切りの良さと小林の若い感覚がかみ合っていた。
コマーシャルソングの作曲家として小林の名前を確立したのは、やはりレナウンだった。
〈1967年、当時のコマーシャル関係者を驚かせたのがレナウンの「イエイエ」だった。8ビートをR&B風にアレンジした新しいリズム。コマーシャルメッセージも歌詞もなく、“イエイエイ”というリフが繰り返される。作曲は小林亜星である。(中略)演奏はグループサウンズの中でも実力派と言われていたシャープホークスだった。
「イエイエ」のインパクトはその映像にもあった。“ピーコック革命”と呼ばれたカラフルなファッション。1968年版は、ミニスカートの女の子がギャングを相手にマシンガンを撃ちまくり、彼女たちの背後に原色の蝶が舞うという衝撃的なイラストレーションだった〉(「みんなCM音楽を歌っていた―大森昭男ともうひとつのJ‐POP」〈田家秀樹著、2007年、スタジオジブリ〉より)
小林は“カッコいい”音楽を生み出す、時代の寵児(ちょうじ)となったのだ。
テレビコマーシャルの幸せな時代
昭和43(1968)年には「don don di don - shu bi da den」という“オノマトペ”のみのサントリーオールドのCMソング「人間みな兄弟」を世に送り出している。歌っているのはサイラス・モズレーという米国人である。
「上智大学の神学科の先生。黒人霊歌がうまいっていうのを知っていたので、歌ってもらったんですよ」
アコースティックギターと野太い声のみ、哀しげな旋律の「人間みな兄弟」は朱里エイコが歌った「イエ・イエ」とは全く雰囲気が違う。
小林は昭和39(1964)年に初めて米ニューヨークを訪れた。ジャズの好きな彼は、黒人居住区であるハーレムに足を運んでいる。その日は日曜日で教会でゴスペルを演奏していた。それを聴いて思わず涙を流したという。「人間みな兄弟」はこの経験に触発されて作られた。
「同じようなイディオム、同じようなことをやるのはあんまり好きじゃないので。同じじゃ意味がない。コマーシャルなんて一つ一つ違っていないと。まあ、なんでもそうでしょうけれどね」
小林は日本社会の変化を肌で感じていたと言う。コマーシャルはそれを映す鏡でもあった。
「あのころは毎年、いろんなものが変わっていた。それをみんなが分かっていた時代ですね」
代表作の1つ、日立製作所の「この木なんの木」は昭和48(1973)年4月の録音である。青空に青々とした木が映し出される、このコマーシャルは日立グループの提供するテレビ番組で長期にわたって放送されることになった。
「こうした曲は、作ったときに『長く愛される』という予感はあるものですか」と聞くと、小林は「ないない」と大きく手を振った。
「全然ないです。『この木なんの木』なんて(歌詞を)、普通は日立が作らせてくれるわけがない。日立とも何とも入っていないんだから。日立を創業した方のお孫さんと仲が良かったんですよ。学習院(大学)を出て宣伝担当をしていた。その人が作らせてくれたから残っているんでね」
作詞は伊藤アキラである。小林は伊藤を「広告というものを熟知しており、知的な言葉遊びのできる人間である」と評する。後に、小林と伊藤は新興産業のCMソング「パッ!とさいでりあ」でも作詞、作曲で組んでいる。
「コンセプトは伊藤さんが考えてくれた。(コマーシャル映像に使われている)あんな木なんて、歌に合うのをハワイかどっかから探してきたんでね。後から、あれがあの木だなんていうふうにしたけど」
コマーシャルの仕事が気に入ったのは、曲のコンセプト、ミュージシャンの選択、アレンジ、全てを自分一人で好きなようにできるからだと小林は言う。
「コマーシャルがいいのはそれだけですよ。いろんな人に相談する必要がない。クライアントさえ気に入ればOK。クライアントって下っ端の言うことを聞いても、社長に『なんだこれ』って言われたら終わりじゃん。だから社長と仲良くなる。(自分の仕事をしている企業は)みんな社長と仲が良い。友達」
「やはり、小林さんは営業に向いているんですね」と口を挟むと小林は「お恥ずかしい」と頭を少し下げた。
昭和45(1970)年前後、30歳代後半に差し掛かっていた小林は、1日3曲ほど曲を作っていたという。このとき、小林が心掛けていたのは、「明るく、爽やか」な精神状態で曲を作ることだった。
朝起きると、目に目薬、鼻からは点鼻薬、肌にデオドラント剤をたたき付けて頭をすっきりさせた。そして、「明るく爽やか」と呪文のように唱えて曲作りを始めた。
前出の「亜星流!」ではこう書いている。
〈でもその気にならなければつくれないから、明るくさわやかにしていなくてはならない。毎日つくらなければならないし、クライアントから満足を得られなくてはいけない。だからものすごく辛い。やっとできて録音をし、さあ帰るとなると夜も更けている。そうすると、今日はできてよかった、スポンサーもOKをくれた。ほっとしてとりあえず緊張感から解放され、あとは飲むしかない、ということになる。
毎晩ボトル一本のウイスキーを明け方まで飲んだら、また朝が来て、また緊張して明るくさやわかになってつくる。そんな悪循環の毎日が続きました。そしてこんなことをくり返しているうちに、極度のストレスがたまって、体重はあっという間に百キロをオーバーしていました〉
どんな商品であれ、それを売ることが人々の幸せにつながると無邪気に信じられた時代だったと小林は振り返る。
テレビコマーシャルの幸せな時代だったと言える。
「北の宿から」のセールスは140万枚、レコ大を受賞
番組主題歌、テレビコマーシャルの他、小林は歌謡曲も手掛けている。
最も知られているのは、都はるみの「北の宿から」だろう。昭和50(1975)年12月に発売されたこの曲は140万枚を超える大ヒットとなった。翌年の「日本レコード大賞」「有線大賞」を受賞している。
「北の宿から」は、作詞家の阿久悠からの依頼だった。このとき、都はるみは20代後半に差し掛かっており、若さを生かした歌ではなく、“女盛り”を感じさせる歌で勝負したいと阿久は言う。都はるみに、もう一花を咲かせてやりたいという周囲の熱意を感じた。
しばらくして、阿久から2曲分の歌詞が送られてきた。その1つ、「北の宿から」の「あなた変わりはないですか」という書きだしを見て、古い女性の歌なのかと、首をひねった。そして「女心の未練でしょう」という部分が目に留まった。男に捨てられてもまだ未練が残っている、それを突き放していることが、新しい女性像かもしれないと思い直したのだ。
2曲の作曲に費やしたのは2時間ほどだった。
「『結構いいじゃん』と思ったけど、レコード大賞を取るとは思わなかったね」
「大ヒットの予感はなかったんですか」と問うと「全然」と即答した。
「書いているときは自分の作っているものは最高だと思っています。そうでないと仕事がなくなる。でも、本当に売れるかどうかなんか分からない。誰にも分からないんじゃないかな」
「北の宿から」がヒットしたのは、コマーシャルにはない“チーム”が機能したからだと小林は分析する。
「コマーシャルと違って、僕はメロディーを作らせてもらっているだけ。自分一人でやっているという感覚がない。だからアレンジには口を出していない。はるみちゃんのレコーディングにも立ち会っていない。流行歌というのは、曲を作る人、アレンジする人、広告する人、みんなの熱意があった。1人でも駄目な人がいるとヒットしない。そういうものなんです」
「北の宿から」のような、老若男女、幅広い人間が口ずさむ流行歌が消えて、久しい。
「バブル崩壊もあるけど、ある時期からレコード会社で現場の人たちに決裁権がなくなった。銀行から来た人が権限を持っていて、『それを出したら幾らもうかるんだ』って言われてもね。僕たちの歌はばくちだからね。そんなこと言われて分かるもんじゃない。幾らもうかるって言われたら、作れないですよ。昔はね、5、6人で曲を作ろうと考えていて、4人が反対でも1人が当たるって主張したら、出せた。そういうのが当たる。今は3人OKで2人反対。まあ、それでもいいかっていうのを出すから当たらない」
「曲なんてここを直せって修正してもいいものにならないんですよ」と小林は首を振った。
「修正するような曲は最初から駄目だってことですよ」
流行がなくなった・・・・・・ちょうどいいな、俺はもう死んじゃうし
もっとも、かつてのような流行歌が出ないのは日本だけではない。
「アメリカではこういうのがはやっている、フランスではこういうのがはやっているというのを、昔はみんな知っていたじゃないですか。今は全然分からない。はやるというのがなくなった。それは音楽だけじゃなくてファッションも同じ。音楽理論的にもう新しい発見はない。行くところまで人類は試みちゃったのかもしれない」
そう言った後、「ちょうどいいな、俺はもう死んじゃうし」と大笑いした。
「予定では来(2020)年に死ぬことになっている。前から表を作っていて、ずいぶん前から『88で終わり』って書いてある。だから来年はもう駄目なんだろうなって思っているんだけれど、こればっかりは自然の成り行きだからなぁ」
「未練はないんですか」と尋ねると「嘘みたいだけれど、ないんだよ」ととぼけた口調で言った。
「運が良かった、楽しい人生だったなぁと思います。テレビの時代の始まりから終わりまで、ずっとやらせてもらった。今もテレビは力があるけれど、昔とは違う」
小林は昭和49(1974)年に始まったテレビドラマ「寺内貫太郎一家」で主役を務めている。向田邦子脚本のこのドラマは、小林の姿形を広く世間に伝えることになった。アニメーション、コマーシャル、そしてドラマ、バラエティー番組--テレビを縦横無尽に駆け抜けてきた人生とも言える。
「今、生まれてきて、(自分がやってきたのと)同じことをやろうと思ってもできないですよ」
「自分はテレビの申し子だったんですよ、運が良かったんですよ」と何度もうなずいた。
(終わり)
作詞・作曲・編曲家
(写真/酒井康治)