伝説のクリエイターたちの軌跡。個が尊重され、大ヒット不在の現代。いま一度、大衆の心を動かした「創り人」の仕事に迫る。シリーズ初回は昭和のCM音楽の巨人・小林亜星。製紙会社に入るも程なくして独立。ところが自ら始めた紙問屋も行き詰まり、またしても音楽の世界へ。
■ INDEX
第1回 2019.10.25公開
和製ジャズに心を奪われ、激怒の父にギターを奪われた少年時代
第2回 2019.11.01公開
才気ある友との出会い、バンド再結成、そして放蕩の味を知る
第3回 2019.11.08公開
狼少年ケン、魔法使いサリー 背中押されアニメ音楽へ
第4回 2019.11.15公開
アニメ、CM、歌謡曲 テレビ時代の申し子に未練なし
会社員の器に納まらず、紙問屋を立ち上げるが……
昭和30(1955)年、小林亜星は慶應義塾大学を卒業し、日本製紙に入社している。配属されたのは営業部だった。
「営業っていっても断る営業ね。紙が足りないから、あちこちから電話がかかってくる。それを断る」
「こんなふうだったよ」と小林はふんぞり返ると両耳に受話器を当てるしぐさをした。
「楽な営業だった。(取引先は)出版社とか新聞社。出版社の多い神保町に行って、35円のラーメン、50円のカレーを食べて帰ってくる」
このときは音楽から足を洗ったつもりだった。
「ちゃんと仕事をして食っていかなきゃいけないって考えていたんです」
そんな殊勝な言葉とは裏腹に、バンドマン時代からの金遣いの荒さは変わらなかった。初任給の8500円は2晩で飲んでしまった。
山っ気のある小林は会社員に納まらなかった。
「そのうちに紙が足りないのが落ち着いてきた。僕はメーカーの人間だったでしょ、そこに紙を出している代理店の人が『亜星ちゃん、会社を辞めるんなら、うちから紙を出すよ。売るとこ探しておいで』って言うんだ。それで紙問屋を始めることにした」
小林は日本製紙を辞めて自分の会社を立ち上げた。
「俺もインチキなやつなんだ。京橋のほうに小林ビルってのがあってね。そこに小林洋紙店なんてつくった。みんな僕のおやじが持っているビルだと思うじゃない?」
人懐っこく、物おじしない小林には、営業の才があったのだろう。次々と取引先を増やしていった。
しかし――。
「引っかかっちゃったのよ。宇野千代さんが『スタイル』って雑誌をやっていてね、そこ(宇野の出版社)に僕は紙を出していた。それと河出書房。両方がつぶれちゃった。1000万ずつくらいやられちゃった」
「スタイル」は作家の宇野千代が昭和11(1936)年に始めたファッション誌である。第2次大戦中に休刊した後、昭和21(1946)年に復刊していた。宇野の自伝「生きて行く私」(1983年、中公文庫)によると、まずは脱税の疑いで国税局の査察が入ったとのこと。これは〈同業者の投書〉があったからだという。3カ月後、追徴金を含めて〈億近い金額〉の支払い義務が生じた。
さらに講談社(東京・文京)から「スタイル」と同様の若い女性を対象とした雑誌が発刊された。
〈その雑誌の創刊号が出たときのことは、いまでも忘れない。朝、新聞を開いて見ると、どの新聞にも一頁大の大きな広告が出ていた。「若い女性」と言うのが、その雑誌の名前であった。どの街にも、その雑誌の大きな立て看板が立ち、各書店の店頭には、ところ狭しと、その雑誌の色刷りのビラが下がっていた。(中略)たぶん、私たちも同じことは出来たであろう。「金のある奴にはかないませんよ」。うちの社員の一人がそう言った。脱税分の納入がまだ済んでいなかった。そうだ、あの湯水の湧くようにあった金が、もう、私たちのところにはなかった。
まず紙の支払いが遅れ始めた。この仕事の最初から紙の面ではとことん面倒を見ていた経済人の水野成人が、どんなに力を尽くしたか。しかし、一人の人間の庇護だけでは頽勢は戻せなかった。〉(「生きて行く私」より)
「生きて行く私」では、別荘を売り払って紙代に充てたと書いてあるが、実際は未払いが残っていた。その1つが小林の紙問屋だった。
「それまで羽振りが良かったのに、急にこうなっちゃった」と、小林は掌(てのひら)を下に動かした。
「もうみんなが気の毒がってくれてね。(借金は)なんとかなったのかなぁ」
20代半ばで借金を背負うことになったのに、ひとごとのような口調だった。すでに小林は紙問屋に見切りをつけていたのかもしれない。
職人にもなれないやつが芸術家になれるわけがない
「営業の仕事は割と好きだった。でも本当に好きなのは音楽。好きじゃないやつと好きなやつが競争したら、好きじゃないやつは勝てない。本当に好きなことをやらないと駄目だって思った。それは音楽しかない」と小林。
そして、ほそぼそと音楽活動を再開した。松濤幼稚園(東京・渋谷)の影絵劇に付ける音楽の制作だった。
「まだラジオの時代でしょ。『向こう三軒両隣』とか『ヤン坊ニン坊トン坊』とか、すごくいい音楽なんです。こういう音楽をやる人に習いたいって思ってね。どこにいる人だろうって、本屋で有名人の事典みたいなものを調べて訪ねて行ったの」
「向こう三軒両隣」はホームドラマ、「ヤン坊ニン坊トン坊」は子供番組である。これらの番組の音楽を手掛けていたのは服部正だった。服部は国立音大の教授でもあった。
「当時ソニーがね、テープレコーダーを作っていた。テープって白い紙で出来たやつ。それに影絵劇の音楽を録音したのを持っていったのね。私はこういうのを作る人間だって」
自宅を訪ねてみると服部は不在だった。代わりに出てきた服部夫人から「うちの主人は音大の人にしか教えないみたいですよ」と言われた。
「それ聞いてがっかりした。それでも『これを先生に渡していただけますか』と、テープと譜面を置いてきた。『これは駄目だな』と思っていたら、先生からはがきが来て『ぜひいらっしゃい』って。それで服部先生のところに弟子入りした」
毎週日曜日の午後、小林は服部の自宅を訪れた。そこにはやはり小林と同じ弟子が6、7人集まっていた。
「一度行くと3000円のレッスン料。でも払ったのは最初の3回だけ。後は払っていない」
「ひでぇ弟子だ」と、小林はのけぞって笑った。
「こんな本を読みなさいとか、後は旋律を重ね合わせる対位法的なものを教わったり。毎日1曲はちゃんと作らなきゃいけないとか、いろんなことをやらされた」
なかでも印象的だったのは服部の音楽に対する姿勢である。
「まず職人になれと。げたでもなんでも同じ。最高の職人が宙を飛ぶようなげたを作れば、人は芸術家と呼んでくれる。芸術家というのは他人が言うもので、てめぇで言うことじゃない。それは口酸っぱく言われましたね。『職人にもなれないやつが芸術家になれるわけがないだろう』って。それは真理なんですよ。だから先生の弟子はみんなちゃんとした背広を着ている。変に格好をつけたり、頭をそんな(芸術家)ふうにしたりなんてのは一人もいない。そのうちに先生とか兄弟子(あにでし)のお手伝いをするようになって、だんだんとこの世界に入っていったんだね」
やがて小林は、NHKの「夜のしらべ」という音楽番組の編曲を任されるようになった。
「オーケストラとか(原信夫と)シャープス&フラッツとかの一流バンドが演奏する曲を全部アレンジした。もうアレンジャーとしてはこれ以上の出世はないっていう番組」
しかし、編曲は自分の仕事ではないと思うようになった。
「アレンジはね、左脳、論理脳ばっかり使うの。メロディーは右脳。アレンジばっかりやっているとメロディーが作れなくなる。メロディーを作る能力が劣化しちゃうんです。僕はアレンジャーになる気は無かった。これは駄目だと思って、せっかくのレギュラー番組だったのに、友達に引き継いでもらった」
人生では自ら気が付かないうちに岐路に立っていることがある。小林が選んだ道は正しかった。時代の需要が彼の背中を押すことになったのだ。
ジャズの表現を使った「狼少年ケン」のオープニング
テレビの民間放送の柱の1つとしてアニメーション番組の製作が始まっていた。
日本で最初の本格的なテレビ用アニメーション番組は、昭和38(1963)年1月にフジテレビ系で放映が開始された手塚治虫原作の「鉄腕アトム」である。
この番組の主題歌の作曲、劇中での音楽を高井達雄が担当している。高井は国立音楽大学卒で、服部の弟子でもあった。つまり、小林の兄弟子だ。
「ちょうど東映動画(現東映アニメーション)が出来て、そこに呼ばれた。それでちょっとやってみないかって」
「狼少年ケン」である――。
この番組は、昭和38(1963)年の11月末にNET(日本教育テレビ、現テレビ朝日)で放送が始まった。東映動画、そしてNETにとって初めてのテレビアニメーション作品だった。
作品の主題歌は、パーカッションの乱れ打ちから始まり、そこに「ワーオ、ワーオ、ワオ」という少年の高い声、そして「ボバンババンボン、ブンボバンバババ」という男性の低い声が入る。オノマトペ――擬音語を効果的に使う小林の特徴がすでに表れている。
この曲が目立ったのは、テレビの世界で初めてジャズミュージシャンを起用したことだと小林は考えている。
「(テレビ)業界にジャズのミュージシャンがいなかった。ジャズの人はアドリブ(コードを基にした即興演奏)はできるけど、譜面を初見で演奏できるとは思われていなかった。僕はジャズの人間でもあるので、ミュージシャンをいっぱい知っている。それで『狼少年ケン』でも太鼓(パーカッション)を10人くらい集めたのかな。僕はテレビでジャズのイディオム(表現方法)を使った」
それまでのテレビ界はクラシック音楽の系譜にあったのだ。
「戦略的にジャズのイディオムを使ったんですか」と小林に問うと、首を大きく横に振って笑った。
「こっちは、それじゃなきゃ作れない」
昭和41(1966)年12月からはNETと東映動画による「東映魔女っ子シリーズ」第1作となる「魔法使いサリー」、昭和44(1969)年1月には第2作「ひみつのアッコちゃん」が始まっている。これらの音楽も小林の手によるものだ。
小林はこう振り返る。
「なんか偶然みたいな感じで、仕事が次々と入るようになっちゃったんだ」
ちなみに、フジテレビ系では昭和40(1965)年に「ジャングル大帝」の放映が始まっている。こちらの音楽担当は小林の慶應義塾普通部の同級生、冨田勲だった。
新興メディアであるテレビが、最大の娯楽産業だった映画を追い抜こうとしていた。先人無き世界を切り開いていくために、若い才能が必要だったのだ。
そしてアニメーションでその力を認められた小林が、テレビの心臓とも言える“コマーシャル”に引き寄せられるのも当然だったろう。
ただし、そのきっかけは、冗談のようなものだったという――。
(つづく)
作詞・作曲・編曲家
(写真/酒井康治)